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一.ふたつの顔を持つ作家
氷崎螢雪──
まだ両親がいた時代に彼の本は一冊だけ読んだことがある。
軍人の娘と農家の青年の身分違いの恋を描いた話で、典雅な語り口に惹かれるものはあったが、その本を貸してくれたひとが螢雪はあまり好みではないようでもっと読みたいとは云いだせなかった。
なので切ない恋愛を得意とする人気作家という印象しかない。
──こんなことになるなら、
もっと読んでおくんだった、とひさは辺りをきょろきょろ見回しながら後悔する。
なにせ突然のことだった。叔母に急きたてられ、ろくな荷物──両親が買いあたえてくれた着物もかんざしも売られるか従妹のものになってしまい、ひさの持ちものなどたいしてなかったが──も持たずに家から放りだされた。
奉公先だという螢雪先生の家までついてきてくれるはずの口入れ屋のじいさんも予定が立てこんでいるとのことで、口頭で道を説明するとそそくさとどこかへ行ってしまった。有名な小説家の家だから道を聞けばだれかしら知っていると思ったのかもしれない。
なので、ひさはいま頼りない足取りでじいさんが指さしたほうへひとりぼっちで歩いているのである。
──ああ、せいせいした。
閉じた門の向こうで聞こえよがしに云われた叔母の言葉が胸に突き刺さっていることを感じながら。
ひさを養うだけの金が叔母一家にないわけではない。ひさの将来のために両親が貯蓄してくれていたお金はすべて叔母たちの手中に納まっているのだから。
だから名目こそ花嫁修業ということになってはいたが、厄介払いなのは明らかだった。ひさはすんと鼻を鳴らす。
追いだされたことが哀しいわけじゃない。
両親と暮らしたあの家が、ぬくもりが、叔母一家に奪られてしまったことが哀しい。
とぼとぼ歩いているうちに、ここはまだ東京だろうかと疑わしくなるような一画にひさは入りこんでいた。人通りがすくなく、店も見当たらない。道もどんどん狭くなってきた。心なしか空気がくすんでいて、晴天のはずなのに空から降る光がしけているような気がする。
粗末な長屋が並ぶ通りを赤ん坊を背負った母親が忙しなさそうにひさを追いこしていく。両親が亡くなって二年。母の思い出は、日が経つにつれて朧なものになっていく。
私の味方はもうこれだけだ。ひさは懐を着物の上から手のひらでぎゅっと押さえた。
そのとき──
「お腹でも痛いのかい?」
凪のようにやさしい声が上から降ってきた。
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