婚約破棄してくれてもいいのに

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 冒険家のリカルドは滅多に家に寄り付かない。  今こうしている間も世界のどこかで命がけで山に登ったり、海に潜ったり、洞窟の攻略をしているに違いない。 「空に浮かぶ城とか、海の底の街に行ったこともあるぞ」  たまに帰ってきては、暖炉の前でカミラを膝にのせてそんな話をしてくれる。  (くつろ)ぐときのリカルドは、伸びた茶色の髪を無造作に束ね、ごつい黒縁の眼鏡をかけて背中を丸めており、百戦錬磨の冒険家にはとても見えなかった。  ――空のお城にはひとが住んでいるの? 海の底の街には誰がいるの?  屋敷の図書室にあるどんな本より、リカルドの話の方が面白い。  いつまでも話をねだって、気付いたらリカルドの腕に抱かれたまま、暖炉の前で朝まで二人で寝てしまったことも一度や二度ではない。  ――旅の仲間が請け負った仕事があって、一緒に魔王討伐なんかもしているんだけど。  魔王城に行く道のりは、間違えて迷い込むと危ないからカミラには教えないね、と。  唇の前に指を一本立てて「ひみつ」といたずらっぽく笑って言っていた。それでいて、「教えない」という決意は本物らしく、カミラがどんなに追及してものらりくらりとかわされた。  カミラが七、八歳になった頃だろうか。  リカルドはカミラを膝にのせてくれなくなった。 (私の体が大きくなってしまったせいね)  寂しさとともにカミラは受け入れた。  リカルドは、一年に一度も帰らぬ年もあれば、数度立ち寄ることもある。訪れはいつも突然で、別れもあっさりしたものであったが、決して冷たくはない。会えない日々が長くなればなるほど不安になるが、(忙しいだけよ。私のことが嫌いになったわけではないはず)と、カミラは自分自身に言い聞かせてきた。  十歳を過ぎてからは「留守を預かっている」という意識が強くなった。  もちろん、実際に屋敷の中を取り仕切っているのは、リカルドの親の代からいる家令やメイド長であったが、自分も何かの足しになるよう領地の経営なり領民との付き合いを学んでいこう、とカミラは真面目に勉強をした。  十三歳のとき、「形式だけだが、婚約という形を取ることにした」とリカルドに告げられた。 「いずれ結婚するということですか」 「君の両親が亡くなって、君を引き取ったときは、正直そんなつもりはなかった。だが、長く手元に置きすぎた。今さら他家に嫁げとも言い難い。俺は家を空けることが多いから、君がここに留まってくれると実に助かる。とはいえ束縛するつもりはない。君の生活に口出しをすることはないから、そこは安心して欲しい」  そう言ったリカルドは、旅先の話をするでもなく、その晩は滅多に使わない自室にて就寝した。  夏だった。  火のない暖炉の前でいつまでもリカルドを待っていたカミラは、明け方自分の部屋へ戻った。 (私の在り方に口を出さない、ということは。自分のいまの生活にも口を出してほしくないという意味でしょうか)  確実に距離が開き始めた二人の関係に気付いてしまった以上、「もっとお話をして」とせがんだ頃のようにリカルドに甘えることはもうできない。  もともと、カミラはリカルドの遠縁にあたる、と聞かされてきた。  両親が不慮の事故で死に、後見人に財産を使い潰されていたところ、リカルドが名乗り出て引き取ったのだという。  あまりに小さい頃の話過ぎて思い出すことはできない。  記憶のすべては、リカルドに出会った以降からはじまっている。  カミラがこの家にきてすぐの頃は、リカルドもこれほど家を空けなかった。朝出て行けば夜には帰るような生活をしていた。やがては仲間たちと遠くまで行ってしまうようになったけど。 (それでも、いつも、いつかは必ず帰って来ると思えば待つことは苦ではなかったから)  口約束のような婚約を伝えた翌日も、リカルドはそそくさと旅の空へと戻って行った。  * * *
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