夫には読まれてはならない日記

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 わたしは退屈だった。  いや、そう思い込まされていたというか。  退屈な夫に付き合って、自分までもが退屈に支配される生活を送らねばならない、というのが間違っていたことを彼が教えてくれた。  ほんのわずかにふれてきた指先でさえ忘れられない。  好きですよ、なんて気安い言葉までもが、耳の縁を染めるほどわたしをどうにかしてしまった。  ほかの誰かから愛されてもよいのだということを、彼が再び教えてくれた。 「王様の耳はロバの耳」と言いたくて仕方なかった床屋の気持ちがとてもよくわかる。  誰かに言いたい。言いたくてたまらない。  特別な秘密を持っている優越感に浸りながら、ちょっと自慢げにあらいざらい全部ぶちまけてしまいたい。  ひとつひとつを思い返しながら、どれだけ情熱的に求め合ったのか。  溺れているのはわたしだけじゃなくて、どちらも同じだって事を誰かに伝えたい。  でも。  それは決して誰にも言ってはならないことだった。  だから、彼との一部始終を綴らずにはいられなかった。    1  夫が連れてきた愛犬は、散歩を押しつけられるだけでちっとも愛情が持てなかった。  ルルウなんて名前、誰がつけたのと何気なく聞いてみたら、「ええ?」と少し考えながら忘れたといった。聞かれたときのウソも用意できないなんて。  これが生体でなければゴミ袋に押し込み、ゴミ捨て当番の夫に素知らぬ顔で「捨ててきて」と渡すところだ。  前に付き合っていた女の名残とともに新居にやってくる無神経さがイラつく。  いや、違う。「前に」ではない「同時に」付き合っていた女だ。  わたしが仕事を辞めざるを得なかったのも、夫がわたしの同僚とわたしを二股にかけていたからだ。  でも、夫はわたしを選んだ。  なにもかもね、具合がいいんだとひどい冗談をいいながらわたしを抱いても、あのときは選ばれた優越感で、それも前戯の一部とした思わなかった。  ずっときみに本気だったのはわかってるだろ?と甘い言葉を囁き、自尊心の高まりとともにわたしを絶頂へ導いた。  披露宴に職場の人は呼べないからどこか遠くで式を挙げてほしいと頼んだら、海外で家族だけの式を挙げてくれた。  どこからすれ違っていったかもわからないほど順風満帆にみえた結婚生活だった。    2  かわいそうに。ルルウは、誰からも愛されていなかった。  夫も持て余しているルルウ。  前の女が飼いたがっていたのだろうと容易に想像が付くが、あの女は犬をあっさりと捨てていった。  そんなことも知らないルルウは、ひょっとして今もあの女の帰りを待っているのだろうかと、忌々しく思うこともある。  けれどもルルウがいなければ、彼との出会いもなかった。  うとましく感じていたくらいなのに、皮肉なものだ。  いつもの散歩道で、てくてくとわたしの歩調に合わせて歩いていたのだが、突然通りの反対側に向かって飛び出していった。  いなくなればいいというのが正直な気持ちであったのに、どういうわけか「待て! ルルウ!」と呼びつけ、しっかりとリードを握りしめた。  ルルウの向かおうとしていた先に犬を連れた青年がいた。  ルルウと同じダックスフントで、毛足が短く、どこか驚いたように足を止めてこちらを見ていた。  青年はというと、わたしに気がついて軽く頭を下げるとこちらへ近づいてきた。  なんのために?  まず、そんなことを思った。  ちょっとしたこの緊張が、はじめはなんなのかわからなかった。  文句をつけられるのかと身構えはしたけれど、でも―― 「友達になりたいみたい」  彼はそういって愛犬を慎重に近づけた。  二匹ともすっかり気を許したのか尻尾を振って匂いをかいでいる。  微笑ましそうに見ていた彼は、こちらが勘違いしてしまいそうなほど柔和な瞳でこちらを向いた。  彼は根っからの犬好きなのだ。 「オスですか?」 「え? ええ、そちらも男の子?」 「はい」 「なんだ。ルルウったら、一目惚れしちゃったのかと思ったわ」  久々に見知らぬ男性に声をかけられても、そんな冗談が言えるくらいにはわたしもまだ冷静だった。  たとえていうなら、子供が通う保育園で保護者同士が話しをする、そんなかんじだろうか。  子供がいないわたしにはそんな交流さえもないから、本当に久しぶりだ。  飼い主らしく、お互いの犬の話しをする。  名前はレオン。一歳半。ペットショップで一目惚れをして、バイトで貯めた原付バイクの購入資金を使い果たしてしまったが、後悔はない。この春休みに引っ越しをしたんだけど、レオンのために近くに公園があるところを選んだ。家飲みの時につまんでいるビーフジャーキーをあげているから少々太り気味なんだとか、犬の話しはとめどない。  そんなことはどうでもよかったが、彼のことを聞くきっかけはつかめた。 「学生さんなの?」 「こんな時間に暇なのは学生ぐらいです」 「あと、専業主婦もね」    3  配偶者がいるのだからと釘を刺すような言い方になっていなかっただろうかと、すこし後悔した。  自虐的にいっただけで、もちろん距離を置きたいわけでもなかった。  けれども学生のようなノリで、LINEでも交換しておきましょうという気軽さもなかった。  散歩友達ですらなかったわたしたちは待ち合わせをすることもなく、たまたま顔を合わせる程度だ。  たまたま公園近くで出会ったときは、そのまま散歩がてらという感じで公園まで行ってベンチで話しをしたりもする。  そんな関係だった。  結婚してからの恋愛なんて、一か八かの無謀さでないと近づけやしない。  そう思っていたけれど、消極的な行動の中に、わたしはなにかの期待をしていた。  密やかに彼が散歩していそうな時間を狙う。  彼にも誰にも秘密のその淡い期待は、羞恥心も秘めていた。  わたし、年甲斐もなく、なにしてるんだろうって。  そして、彼の姿を見つけると、浮き立つ気持ちを抑えて挨拶を交わすのだ。 「雨の日はついつい散歩を取りやめちゃうけど、日中の散歩が気持ちいい季節ね」  いつだって散歩がおっくうだったというのは内緒だ。  いろいろと自分を取り繕うのも長らくなかったなと、彼と会うのはやっぱり恥ずかしいような気持ちだった。 「旦那さんって今、仕事中なんですよね」  一度も夫の話題が出たことはなかったのに、急に夫のことを持ち出して、正直驚いた。  ルルウのことさえ隠してわたしの連れ子だということにしていたのに。 「そうよ、電車で一時間もかけて通勤してる」  わたしがなんでもないように答えると、彼は遠くの噴水を見ながら、無意識に細いリードをぐるぐると指に巻き付けていた。 「随分遠くに勤めてるんですね」 「そうね。今すぐに浮気がばれたとしても、ここへ殴り込むまで一時間以上はかかってしまうわね」  おどけて言うも、彼の表情は思いのほか硬かった。 「こういうのも浮気っていうんですかね」 「あ、ごめんごめん、冗談よ。そういう意味じゃない」  彼は首を振って違うんですといった。 「初めに専業主婦だって言わなかったら、旦那さんいるんだろうなと思いながらも知らないふりをしていたかもしれません。今からでも知らないふりってできますかね?」  わたしは混乱してしまった。  彼の真意がわからない。  別にそんなことどうでもよかったはずではないか。  丁寧に恋することなんて自分は望んでない。  年下の男にからかわれたとしても、そんなことは気にしない一か八かの恋でよかったはずなのに。  向こうから気のあるそぶりをされて思慮深く黙り込んでしまった。  わたしの沈黙をどう受け止めたのか、彼は「ごめんなさい。馬鹿なことをいいました」といって、レオンを連れて帰って行った。  それからしばらく、彼と会うことがなかった。    4  涙ぐましいとはこのことだ。  わたしはルルウを使って彼のアパートを探し当てようと試みた。  ルルウはレオンの匂いを知っているし、ルルウもレオンと会いたがっているふうだから、もしかしたらと思ったのだ。  いつも彼が帰っていく方向をうろうろとしてみたが、ルルウはいつもと違う道に戸惑うばかりでわたしの真意をわかってはくれなかった。  彼とどうにかなってしまいたい感情はいつだってあふれ出そうになっていたのに、この期に及んで一線を越えることをためらうなんて。  そんなことなら、ぎりぎりのところで、ふわふわした関係のままのほうがよかったのかもしれない。  ――いや、このまま終わるだなんて。  あきらめのつかぬわたしは、いつもと違う時間を出歩いた。  夕刻だったが少し陽も長くなり、まだ電灯に明かりがともっていない時間だった。  公園にまでたどり着く。  遠くで、レオンが走り回っていた。  リードをつけずに、自由気ままに。  放し飼いなんてするような彼でもないのに。  ルルウはひと声鳴くとわたしの手から離れてレオンに駆け寄った。  二匹は時の隔たりなど感じず、無邪気に転げ回っている。  彼はいつものベンチに腰掛けたままだった。  犬のように走り寄るわけにはいかなかったが、ゆっくりと、いつだったかの彼みたいに、ちょっと声をかけてみようか、ぐらいの、そんな軽い気持ちで。  わたしは彼への第一声を考えてあった。  ――久しぶり。近頃見ないけど、学校が始まったの?  それとも、どうしたの、レオン、走り回っているけど、とたずねたほうが自然だろうか。  彼はわたしのほうを見向きもせず、犬ばかりを見ていた。  声をかけるのが厚かましい気がしてためらう。  だが、わたしが何かを言う前に、彼は立ち上がった。 「避けられるかと思った」 「……え? どうして?」 「あんなこと、いっちゃったから」 「いやね。うれしかったわよ」 「便利な言葉ですね」  彼は少し投げやりに言った。 「じゃあ、本当にうれしいときはなんていったらいいの?」 「そんなこというなら、オレの部屋に来られますか?」  なんと答えていいのかわからなかった。  いっそのこと、先に自分から誘えばよかったと思った。  断られても「そうよね」なんて冗談のような空気でお別れもできたかもしれない。  なにを怖がっているのだろう。  自分だけが遊びではなかったときの惨めさ?  それとも、夫に対するやましさ?  世間体?  わからない。 「……ルルウを、捕まえないと」  その場を離れようとすると、彼はわたしの腕をつかんだ。 「レオン!」  と、彼は叫ぶ。  レオンは声を聞きつけるとピタッと立ち止まり、次の瞬間には彼のもとへ戻ってきた。  後を追ってルルウも走ってくる。  彼はルルウのリードを拾い上げ、わたしの手のひらに載せた。 「オレに、会いに来てくれたんでしょう?」  そうよ、わたしはルルウをダシにして、あなたに会うために、年甲斐もなく。 「また今度、オレに会いたくなったらオレんちに来たらいいです。だから、オレの家に、来ませんか」    5  それからの細かいことは書くまでもない。  まるではじめての相手のようなぎこちなさで彼のアパートへ向かった。  彼がまずしたことは、犬に水を与えることだった。  二匹の犬が仲良く水を飲んでいる間、まだ迷いの中、わたしは目の前にしゃがみ込んでその様子を見ていた。  不器用に長い舌で絡め取るように水を含む。じっと見たことがなかったから器用なものだなと感心する。 「オレ、放っておかれてるんだけど」  彼を見上げれば不服そうに口をとがらせていた。 「立って」  彼はわたしの手を取ると、立ち上がるやいなやキスをした。  今までのもやっとしたしがらみが解き放たれていく。  彼がわたしのことを誘った真意だとか、神前で誓った夫への永遠の愛だとか、思いとどまろうとする良識だとか。  彼の身体をきつく抱きしめる。  身がすくんでしまうほどに彼への思いが募った。  どうしてこんなにも好きなのかわからない。まやかしにでもあったのかと思うくらいだ。  自分の気持ちもまやかしで、彼の存在もまやかしで。  まやかしの中でもわたしは彼に抱かれたかった。  彼のダウンジャケットを脱がしにかかる。  ロンTを着た彼は思ったとおり痩身だった。  彼は真似てわたしのツイードコートを脱がせるが、「コートかけがなくて」と腕に抱えた。  思わぬ几帳面さにおかしくなりながら受け取って床の上に置いた。  わたしをローテーブルのそばにある大きなクッションに座らせる。  そこは彼のいつもの定位置だろうか。  わたしはすぐに彼を引き寄せキスをしながら押し倒した。  胸をなぞると彼の身体がこわばった。  彼が初めてなのかはわからない。  いや、モテそうな彼のことだから初めてということはないだろう。あまりに早い展開に驚いているだけかもしれない。  シャツの裾を胸までたくし上げると彼は自分で脱いだ。  華奢ではあるけれど、貧弱というほどでもない。夫の早すぎる中年太りの方がよっぽどみすぼらしい。  彼は寝そべったまま手を伸ばしてわたしの上着を脱がせる。  体の線にふれながらわたしのすべてを知ろうとした。  繊細に指先を滑らせるたび、悟られまいとする羞恥心が崩壊していく。  なだらかな膨らみの先端にふれ、身をよじって耐えると、今度は彼がわたしを抱えて覆いかぶさった。  絡みつく足が膝を割って入る。  気づいてか気づかずか太ももには彼のものがあたっていた。  これほど欲したことはない。  丁寧な愛撫さえももどかしく、いっそのことふれてみようと手を伸ばしてみるも押さえつけられた。 「オレのほうが先にイクと恥ずかしい」 「そんなこと……」  かまわないのに……。  言葉が続けられなくなるほど彼は止まらなかった。  舌先でわたしにふれながら最後の場所へと向かった。  吐息を噛み殺すも、わたしのすべてが「もっと」とせがんでいる。  深みにはまって、もがくように、そよぐように、彼はわたしを狂わせる。  彼の手を握ってもうダメだと訴えた。 「本当に?」  彼はちょっぴり意地悪そうにはにかむと、わたしの額にかかった髪を撫でつけながら唇を重ねた。  ひたむきな彼に満たされ、彼を受け入れながら、奥深くに眠る快楽に身をゆだねた。    6  若い男と寝たと言いたい浅ましい衝動が湧き起こる。  わたしは彼の何が良いと思っているのだろうか。  誰にでも紹介できるその容姿か。  わたしを欲してくれているところか。  そう、すべてだ。  優越感も含めて、すべて。  あなたがこれを読んだらどういうだろうか。  あなたはきっとなにもわかっていない。  わたしはあなたにこれを読まれることを望んでいる。  わたしは新しい仕事を探し始めた。  わたしはすでに、あなたにも、彼にも、捨てられる覚悟はできていた。  もう、誰にも縛られることもない、ひとりのわたしに戻るのだ。
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