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五月の線路
「ねぇ、死なせてくれへんかった日覚えてる?」
汗のせいで脚に張り付く不快なシーツを蹴りはらわずに、苛々する気持ちを空気に乗せて聞いた。
「…さっき命ごと逝かせてやればよかったか?」
吸った煙を吐ききってからそんな軽いを返してきた。
ただでさえ肌も心も不快に侵されてるというのに、せめてロマンチックに言い換えてみせろよ、と、言えない私の性格がめんどくさい。
「そうやね、そうかも」
無表情で温度を感じない声が出た。頭と言葉が一致しない時はだいたいこうだ。相手に心情を悟られたっていい、もういい、が最後に勝ってしまって自分が放った声のくせに、やってしまった、と一秒前の過去をすぐに後悔する。今隣で煙草を吸ってるこの男も、一年前に付き合ってたあいつも、高校時代に学校にいる時だけ話してたあいつも、信号待ち中に笑う知らないあいつも、みんなそんなめんどくさいこと考えずに生きてるのかな。
「やっぱお前最高やわ、一番そそられる」
ラブホテルに入ってすぐ、抱く前にそう言った男の言葉が気持ち悪くて頭から離れてくれない。その瞬間の声色や息遣い、顔の近さまで鮮明に記憶されてしまった。剝がそうとしたら白く残ったシールの跡みたい。
一番そそられる、の一番は誰が二番になったの? その女の顔が見てみたい。この男の過去を知ってるだとか、どんなお付き合いをなさってたとか、そういうことが気になるような所謂嫉妬という感情ではない。私がその女を越えた理由が知りたい。宏樹にとって何が優先されて私を一番にしたのか。それとも、宏樹に二番は存在しないのか。
「宏樹、宏樹が私を今ここにいさせてるんやで? 命ごと逝かせてやればって…本気で言ってる?」
「冗談に決まってるやろ。それともなんや、生きててよかったこと一つもなかったか?」
私に返答はさせまいとキスで口を塞いだ。めんどくさい女だなと思ったのだろうか。重たかった? ねぇ。そう聞きたいけど言えない。この乱暴なキスのせいにしておこう。
心がほんとうに軽くなった瞬間が一度だけある。これで終れると本気で思ったあの日のあの瞬間。
駅のホームにいた私の足を止めたのは男の救いの言葉、ではなく、スマホ画面に映った文字だった。
『死ぬ前にちょっと付き合ってよ』
見知らぬ他人の手とスマホ。
もう生きていないと思えば不思議なもので、見知らぬ人であろうと何の抵抗もなくついて行ってしまえた。
「とりあえず飯食いに行くわ。牛丼でいい?」
手を繋ぐ、ではなく手首を掴まれ隣を歩いている。逃げないようにということだろうか。それにしては強引さはなく優しく握っている。
手はごつごつを男らしく、灼けた肌に白い麻のシャツがよく似合っている。夏が好きなんだろうな、と思うと涙が出そうになった。夏は嫌いだ。裾から覗く若い肌や、蝉の音が青春というやつを彷彿とさせる。私にはそんな尊い青さはなかった。この自己嫌悪は妬みからくるものだと実感してしまうから、夏は嫌いだ。
「食欲ある?」
涼しい店内で腰を下ろすと、男はメニューに視線を落としながら聞いた。答える意味はあるのだろうか。というか、もう死ぬ予定の人間の声というのは意味を持つのだろうか。黙っていると、俺と同じのでいいね、と決められた。
料理が運ばれてくるまでの間に会話はなく、男はずっとスマホと睨めっこしていた。私は今なにをしているのだろうか。
店内の時計を見上げると時刻は十二時半を過ぎたところ。私が無断欠勤した今日の社内はどうなってるのかな、と思ってみる。知らない男といるので本日をもって退職させていただきます、と脳内で呟き、この二十年間の浅い人生は蟻の一生とそう変わらないつまらない時間だったのではないかと思う。パラレルワールドを考えてみても、私が社員の一員であろうが、そもそもいなかろうが、大して変わり映えしない光景がどっちの世界でも容易に想像できてしまう。
運ばれてきたのは普通の牛丼。こんな匂いだったかな、牛丼。
「いただきます」
両手を合わせてそう言った男に続いて、私も小声で言ってみた。
「いただきます」
「ちゃんといただきます言えるやん」
咀嚼しながら言った男の目は私を見ていなかった。
「一応、歳は大人なんで」
「そういうことやない。いただきますって礼儀とか感謝のことや。さっき死のうとしてたやつにもそういう気持ちあるんやって思っただけ」
そんな気持ちを込めて言った覚えはないけれど。
「身体が自然とそうしただけです」
「自然に動く、ね。あんなに自然に抗おうとしてたやつの言葉かね」
この男の発言にいちいち棘があるように思うのは私だからか。
無駄口は叩かずに黙々と食べた。案外簡単に完食してしまった自分に驚いた。ストレスを感じている時は喉が通らないタイプなのだけど。
また手首を掴まれ駐車場へ向かい、助手席に乗せられた。抵抗もなしに利口に乗った女をこの男はどう見ているのだろう。
半分窓を開けて紙煙草に火をつけ、口を開いた。
「で、そういえば何歳?」
煙たい。
「二十歳です」
「ふーん、童顔やな」
ドアポケットに赤マル。このさき生きていくとことがあれば、この匂いはこの人との記憶として脳裏に焼き付くのだろうと思うと、狭苦しく感じた。匂いや音で過去が染みついてしまう。
「童貞ですか?」
失礼ですけど、という前置きを忘れた。
「お前は処女か?」
「…違いますけど」
「なんでそう思った?」
「わざわざ死ぬ寸前の人を誘ってホテルって、ヤりたくてしょうがないのかと。てかホテルですよね?」
目的地は聞かされないまま車に乗っているけれど、身体目的だろうと予想していた。
「そう、ラブホテル」
男の人にとってセックスがそんなに魅力的なのか。生まれ変わったら男になってみたい。
「たばこ、一本ください」
無言で渡された箱に記載されたタール12mmの文字。一回二錠と書かれた薬を何倍もの数を飲む前のような気持ちにさせられる。
慣れない手つきで火をつけ思い切り吸い込むと、盛大に咽た。不味い。
「あっはは、吸ったことないんかい」
不味い唾液を飲み込んで、はじめての笑顔にどっと安堵した。
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