1‐3内緒

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1‐3内緒

 そして市杵さんとの約束の日。  私は市杵さんから教えてもらった、中野区のとあるビルの前までやって来ていた。 「ええと、1,2,3,4……5。あそこが稽古場か……よし」  私は意を決して、入口の前に立っている警備員さんに話し掛けた。すると市杵さんから(ことづ)けをされていたようで、名前を伝えただけで中へと通してくれた。  屋内は少し年月を感じさせる外観とは違い、綺麗なオフィスのようなエントランスが広がっていた。  私なんかがこんな場所に来れたのは、もちろん市杵さんのご厚意のお陰ではあるけれど、背中を押してくれたのは店長なのだ。  私はその場で想起する。  市杵さんとのことがあった、あの後の話。 「まじ!?」  店長の付け睫毛が、ぐい~んと上向いた。  お昼休憩から戻った時の私の様子が普段と違っていたらしく、心配した店長が事情を訊いてくれたのだ。  こういう機微を見逃さないでくれる店長の方が、よっぽど演者さんに向いている気がする。  私にとって演劇は観るもので、演じるなんて別世界過ぎて憧れなんてない。前に思い立って観に行ったけれど、よりそういう風に感じ取れた。  けれど市杵さんが私を性別関係なく見てくれたように感じて、男性役のお誘い自体は正直とても嬉しかったのだ。  子供の頃から抱えている何かと、決着が出来るチャンスかもしれない。そう思ったんだ。  でももちろん、理解あるこの環境を捨ててまで挑むことなのだろうかとも思い悩んだ。  だけど店長はそんな踏ん切りのつかない私に対し、挑戦しないなんて勿体ないと言ってくれた。店長には男性役についても守秘義務とかで言えなかったし、性差に悩んでいることも言えなかったけれど、 「いつでも戻ってきていいから」  だから勇気出してこい。店長は私にそう屈託なく笑って、快く見送ってくれたのだった。 「うう。てんちょ~、わがままを許してくれて、どうもありがとうございますー」  私は優しい店長の顔を思い浮かべながら廊下を進む。そして突き当りにあるエレベーターのボタンを押そうとした時だった。 「お疲れさまでーす」「お疲れさまです」  二人の若い男の人の声が後ろからした。と思ったら既に目の前のボタンを押されていて、今はもうエレベーターの中へと誘導されている。 「おつ、お疲れさまです……!」 「何階ですか?」 「ごご、5階です」 「えっ、5階?」「……」  私が答えると、なぜか二人は顔を見合わせた。 「あ、あの……?」 「わかりました。5階ですね」 「もしかして新しいスタッフさんですか? ずいぶん可愛い人が来たなぁ」 「やめろ。すみません、気にしないでください。こいつすぐ調子乗るんで」 「い、いえ……」  ふーぅ、びっくりした。  この二人はきっと演者さんだろう。すごくキラキラしている。  容姿が整っているからとかそういうことだけじゃなくて、なんていうか陽のエネルギーを感じるっていうか、毎日ちゃんと心を込めて生きている感じがした。  そんな二人の後ろで、私は市杵さんとの約束を思い出して胸を高鳴らせた。  余裕なんて全然ないくせにこんなことを思うのは可笑しいけれど、なんか……面白くなってきたかも……!  私は飛びだしてしまいそうな鼓動を出来るだけ落ち着かせる。そして姿勢を正して、勇気を振り絞って二人に声を掛けた。 「それ、合っています」 「えっ?」「……?」  私が答えると、二人はまた顔を見合わせた。 「今日から裏方でお世話になります、夏野と申します」  よろしくお願いいたします。  そう言って私は、二人へと頭を下げた。  ふっふっふ。カメレオン大作戦、決行なのである!
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