メルイーシャの花

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 ようやく天幕(てんまく)から出たエミリオが息を吐くと、昼の熱気を散らすような風がさわりと頬をかすめた。  月は太く、足元は危なげない程度に見渡せる。白く映し出されたアーシャ湖の薄靄(うすもや)を遠目に眺めたエミリオは、やがて野営用の天幕から遠ざかるように歩き出した。  思ったよりも(とが)めは少なかったな、とエミリオは先ほどの会話を思い返す。  フィリエル工房では素行よりも年齢よりも、まず成果を第一に重視される。やや横柄なサザミの態度も、他工房から来たエミリオへの信用も、討伐数一位と二位という実績の上に成り立つものだ。  先ほどのトビアの言動を見るに、自分はまだ工房にとって有用と判断されているようだった。切り捨てたくとも切り捨てることができない程に人材が不足しているだけかもしれないが。  考えながら足を進めていると、聞き慣れた鳴き声が耳に届いた。辺りを見回し、側の木立の根元に黒猫の姿を見つけたエミリオが表情をふわりと緩める。 「フィル、お疲れ」  近づいたエミリオは幹に背を預けるようにして座った。寄ってきた黒猫の額を撫でようと手を伸ばしたが、その口元を見て不思議そうな顔になる。 「どうしたんだ、それ?」  黒猫はくわえていた包みを地面に置くと、すいと首を伸ばしてアーシャ湖を眺めた。 「湖で拾ってきたのか、ずいぶん冒険してきたんだなぁ」  感心したように言ってエミリオが包みを手に取る。やや湿った青い布を広げると、その面持ちがふと真剣なものに変わった。 「……四精石(しせいせき)、か」  布に包まれていたのは丁寧に()()けられた水精石(すいせいせき)のかけらだった。  アーシャ湖を訪れたのが四精術師(しせいじゅつし)だったという確かな証拠だ。しかし、サリエートと対峙するにしては心もとない量に見える。せいぜい目くらましか護身用といったところだろう。  包みを凝視するエミリオの隣で、不意に黒猫が立ち上がって小さく鳴いた。  エミリオも顔を上げる。天幕の灯りが漏れる道の上に、昼間からすっかり見慣れた一人と一頭の影が見えた。 「こんな所で、何してんだよ」  木立の前まで来たサザミが、座るエミリオを見下ろして短く言った。 「ええと、フィルを迎えに。サザミ殿こそどうしたんです?」  エミリオが尋ねると、サザミは眉を寄せたまま無言で右腕を突き出した。見ればその手には煮込みの入った大椀がある。  エミリオはきょとんと目を見張った。 「もしかして、俺の分ですか?」 「片づけがはかどらないって当番の奴にぼやかれたんだ。……飯抜きで、さっきみたいな知恵が回らなくなっても困るだろうし」  サザミの仏頂面(ぶっちょうづら)をまじまじと眺めたエミリオは、やがて破顔して言った。 「ありがとうございます」 「ちゃんと洗って返せってさ。トビア様、そういうのうるさいから」 「ああ。それ、分かる気がします」  頷いたエミリオは手元の布を素早く包み直した。サザミが片眉を上げる。 「何だよ、それ?」 「いえ、何でも」  言った瞬間、隣にいる黒猫の尾がぱたりと強くエミリオを叩いた。横目で見た薄紫の瞳には呆れたような表情が浮かんでいる。  包みを懐にしまったエミリオは、椀を受け取りながらサザミに言った。 「何でもありませんよ、サザミ殿」
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