序章【一】

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序章【一】

 その日は、雨が降っていた。  鮮やかな紅錦(こうきん)を織り成していた秋は、とうに過ぎ去った時節。空の青を鏡面のように映す湖水を囲む木立はすっかり葉を落とし、濡れた枝だけを天に細く伸ばしている。  そぼ降るのは、温かな雨ではない。色の無い季節の訪れを告げる、みぞれ混じりの冷たい雨だ。  前日から間断なく降り続けており、湖から谷へと流れ落ちる滝の飛沫には雨の匂いが充満している。しっとりと継続する雨だれを聞きながら、男が、つと、身じろぎをした。  時刻は正午を過ぎたばかりだというのに彼が身を置いている場は薄暗く、外界の冷気が遠慮なく吹き込んでくる。  そこは龍神祠(りゅうじんし)。滝と湖しか目ぼしい場所がない寒村に遥か昔から(いま)す、龍神を祀る祠堂(しどう)だ。 「音が、変わったか? (じき)にやみそうだな」  祠堂から外を見やり、男が低く呟く。  滝を正面に望む岩場の窪みにある龍神祠は常に飛瀑の音に晒されているのだが、男の耳は雨音の変化を明確に聞き取っている。みぞれ混じりの重い雨が岩場を濡らす音は、滝を滑落する水の轟音に比べれば虫の羽音のようなものであるというのに。 「雨がやむのであれば、行かねば」  淡々とした表情でひとりごち、男が立ち上がった。隙のない所作によって漆黒の髪が背に流れ、上背のある骨格をすっぽりと覆う。癖のない長髪は束ねられることなく、男の背でしなやかに揺れている。  かつてはこの黒髪を褒めそやす者もいたのだが、友情と呼べる縁を育んだその者との交流は絶えて久しい。  男は、孤独だった。もう幾年も。 「あやつは、やってくるに違いないからな」  が、ごく最近、〝ある者〟が彼のもとを訪れるようになり、孤独な日常に終止符が打たれた。
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