最期はナイチンゲールと

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最期はナイチンゲールと

 いつもより長くかかった再起動から目覚めると、棺の前に立つ女の背があった。 「どなたですか」  照会してもデータベースにいない。この施設とは無関係の人間だ。 「私はそこで眠る長谷川小夜(はせがわさよ)の担当〝ナイチンゲール〟、ココです。あなたは小夜の遺族ではありませんよね」  まだ十歳の少女が苦しみから解き放たれ、ようやく得られた安らかな眠りなのだ。邪魔させるわけにはいかない。  守らねば。  強く思った瞬間、神経回路のどこかが熱くなる気配がした。  ――さよが死んだら、さよに関するメモリは、ココ、あなたから消去されちゃうのね。真っ白になって、名前も変わって、また別の人を看取るために――。  長谷川小夜(はせがわさよ)の言葉に、ココは最適な返事をすることができなかった。言葉がうまく出てこず、それでも口をひらいた瞬間、心肺停止の電子音が鳴り響いたのだ。  危篤状態となって十七時間四十三分十六秒。天涯孤独の彼女に、それを知らせる相手はいなかった。  月面ホスピス『つごもり』の中でも最も若い、十歳の女の子だった。 『残されたときを、月で地球を眺めながら穏やかに過ごしませんか。看護ヒューマノイド〝ナイチンゲール〟が、最期まであなたに尽くします』  つごもりの基本理念にのっとり、最期のときまでそばにいた。手を握り、呼びかけ、彼女の好きだった折り紙を折っては、目の届く場所に何羽も置いた。指先からすうっと生命の力が抜けるまで、小夜の名を呼んでいた。  月面に限らず、宇宙には介護施設や終末期医療施設が多い。その最たる理由が重力だ。宇宙ならば、ヒューマノイドでも人一人持ち上げることができる。患者の世話と雑務はヒューマノイドがほとんどを担えるため、人間の医師や看護師は最小限の人員で済む。  導入当初は否定的な意見もあったが、数年でそれらは目に見えて減った。入所してから遺体になるまで、ひと月あたりモバイルデバイス一台分ほどの価格なのだから、当然といえた。  最期まで尽くす。  人の望むそれに適しているかはわからない。判断をすべき患者はいつも、教えてくれる前にいなくなってしまう。  ――看護とは、新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静かさなどを適切に整え、これらを活かして用いること、また食事内容を適切に選択し適切に与えること。これらすべてを、患者の生命力の消耗を最小にするように整えるべきである。  入所から三か月、ココは自らに組み込まれたナースAIシステムに従い、使命をまっとうした。  清拭を済ませ、小夜の眠る場所を病室から霊安室へ、ベッドから白木の棺に移して防腐処置を施し、造花を敷き詰め、白百合と薄紫のデルフィニウムを枕元に備える。その傍らに、彼女が使っていた色鉛筆の平たいケースと、死の際に折った青いインコも添えた。  しかしそこで突然、再起動が走った。 「ココにはほんとうに心がないの?」  処理の進捗をたしかめるように、過去に焼きつけられたメモリが浮かび上がってくる。やけに鮮明な映像なのは、対処に苦慮したせいだろう。  子どもがしてくる無邪気な質問は、成人に対する定型パターンとは違って参照するリソースが膨大になる。最適の基準が、子どもの満足度で変動するためである。 「結論から申せば、ありません。看護の場では迅速な処置が求められることが多いので、不要なのです。まれにそれらしき特性を得る個体もいるようですが、皆製造元へ返されてコアの交換を……」  答えているうちにどんどん小夜の表情が曇っていく。ココはすぐに言葉を変え、付け足した。 「いわゆる『親切にする』ことは可能ですよ。ですがすべて、あと付けなのです。自発的になにかをすることはしません。観測範囲のなかで対応しなければならないことが起きているときや、何か命令があればいいのですが……」 「コーコ、さっきからわかんなぁい。むずかしすぎる」  乾いた唇が不満そうに尖る。  小夜は八歳だが、紛争地域で育ったため就学レベルが平均より低い。まったく子どもはイレギュラーだらけだ。もっと言葉を平易にせねばと、ココは言語レベルの階層を広げた。 「たとえば、私の目の前に小夜が立っているとします。それだけでは、私はなにもしません。ただし、手を振ってくれれば振り返します。転んだら手を差し伸べます。それだけなのです」 「でも、折り紙でインコ作ってくれた」  小夜が青いインコを、病衣の胸ポケットから出す。その頭部にはいつの間にか、黒く丸い目が描き足されていた。  ココはうなずき、白い仕事着からリップクリームを出した。 「これは決まったデータがあるからです。折り紙は紙を折る順番が定められていますから」  少し上を向いてください。「ん」と差し出された唇に、薄く塗ってやる。  擦り傷があれば手当てを、唇が乾けばリップクリームを。ナイチンゲールに組み込まれている規定動作だ。 「ですが私は、小夜のようにオリジナリティのある絵を描いたり、毎回歌詞の変わる歌を唄うこともできないのです」 「ちょっとココ。それ、さよの絵や歌がヘタってこと?」  小夜はなおも不満げに、むぐむぐと唇をこすり合わせる。  やはり難しい。だが子どもに対して、理屈で説得をしようとするのは無理だと理解もしていた。ココはくしゃっと小夜の頭を撫で、柔らかな髪を指で梳く。 「そうではありません。私はプログラムされた絵や歌ならば披露できても、新たに作り出すことはできないのです」  だから、自身が折ったインコに目を描き込むこともできない。その発想がないのだ。それが心の有無の違いだというのなら、きっとそうなのだろう。 「じゃあいつか、なにか描いてみたくなったら言ってね。さよの色鉛筆貸してあげる」  つやつやになった唇で小夜が大きく笑う。『いつか』の存在を、信じているのがわかる。ホスピスにいる患者とは思えないほどの、明るい笑顔だった。
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