蜘蛛と蝶8

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蜘蛛と蝶8

 (リュイ)の躯が小刻みに痙攣する。真山は背後からその細首を鷲掴み、その頭上に小刀子をかざした。美しい横顔が恐怖に強ばるのを見下ろしつつ、(たかぶ)っている自身に嘔吐をもよおす。  あの翌日も、腐った血が逆流するごとく吐き気が止まらず、救いを求めて奥院の白花王(パイホワァワン)へと足を向けたのだ。鬱蒼たる緑の庭に足を踏み入れると幼い啜り泣きが聞こえ、白花王に面した部屋の寝台に小さな姿が見えた。やがて白い肌をした幼子は涙を拭ってよろよろと寝台を降り、光を集めるかのように咲き誇る白花王へと近づいた。そしてうっとりと微笑んで、その純白の大輪に触れたのだ。 「この盗人(ぬすっと)がッ」    真山の(まなじり)が憎しみに吊り上る。栗色の髪を張りつかせた汗まみれの白い顳顬(こめかみ)へとメスのような小刀子を振り下ろす。 「止せ、真山ァァ!」  柘の絶叫と同時に小刀子が弾き飛ぶ。真山の膝許に紫檀の扇がバサリと落ちた。 「やれやれ。息の根まで止められては困りますな。どれほど腕を上げようと、蝶は蜘蛛にはかなわぬのです。加減して頂きたい」  憶えのある陰気な声がし、真山は眼を向け息を呑んだ。開け放たれた戸口に黒い旗袍(チーパオ)を纏った(タオ)が超然と立っている。 「そんなに不思議ですかな。だが、私は死霊ではありませんよ」  信じられないという面つきの真山に、陶が薄笑みをくれる。ゆったりした足取りで武官らの死骸を避け、優雅に裾を捌いて白いソファに腰を下ろす。 「大した執念だな。死んだ振りをしてまで、この虫螻を元の木偶に戻したかったというわけか。林宣(リン・イー)がよほど憎いらしい」 「林宣から全てを奪い、血の涙を流させるのが私の生き甲斐。せっかく作った人形を壊されてはかないません」  気を取り直した真山に、陶が開き直った口振りで言う。 「だったら、さっさと連れて行くがいい。貴様の望み通り、こいつの頭はきれいさっぱり空になったことだろうよ」  真山は吐き捨て、魂の抜けたような半眼の横顔を見下ろした。ふと、血にまみれた幼子の放心の顔を重ねてみたが、心になんの痛みも感じなかった。 (やはり貴様は虫螻だ。外見がいかに美しくとも流れている血は腐っている。どんなに求めようと貴様に救いなどない。穢れた虫籠こそ相応しいのだ)  緑の白い首に走る引き攣れた傷痕に(つば)を吐き、真山は穢らわしげに身を退いた。 「迎えの武官も全て死に、もはや亡命など叶いますまい。四川の御父上の許へお戻りなさい。今なら間に合いますぞ」 「くどい」 「ならば不本意ながら、貴方を拘束しなければなりませんな。申し上げておきますが、貴方の信頼する屈強な側近たちは誰一人息をしておりませんぞ。胡蝶(フーティエ)の仕事が完璧なのは御存じかと」  陶が人形のように横たわる白い裸身を満足げに眺め、着衣を直す真山へと隻眼を転じる。 「書類をお渡しなさい。あれさえ流出しなければ一件は内密に致します」 「取引というわけか。胡蝶の件、親爺に内緒にしろと?」 「左様。悪い話ではありますまい。貴方の毛嫌いする弟君は、今夜限り、貴方の前に姿を現わす事はない。貴方の大事なその男は、四川へ連れて行けばよいのです」 「弟ってなんだ?」    柘の問いに、陶がさも驚いたふうに顔を向ける。 「おや。知らなかったか。君を奪い合った惨劇の役者は、血を分けた(あに)と弟。胡蝶は父に犯され、哥に犯され、そのうえ罪人のごとく(のこぎり)で首を挽かれたのだよ。それはまさに地獄の景。()しもの大龍頭(ダーロントウ)も嫡子の狂気に恐れをなし、記憶を失くした哀れな弟を私に——」 「過ぎるぞッ!」  真山が激しく叱咤し、陶が大仰に両手を広げて黙る。真山が視線を落とし、榻に括られた柘のもとへと戻る。榻に腰を下ろすや呼吸が乱れる。 「真山……」  柘が声を掛けるや、蒼白な顔が振り向く。 「(けだもの)だとでも言いたいか! だが、あいつはッ……おれの大切なものばかり横取りしようと眼をつける。白花王に……おまえだッ。それを、おれが……赦すとでも思うかッ!」  真山の眼から涙が落ち、口から大量の血が溢れでる。突っ伏すように縋った柘の胸が、真山の吐血にみるみる染まってゆく。 「君の胸で死ねて、文龍(ウェンロン)も本望だろう。さて、私も用を済ませに行くとしよう」  陶が見切ったように立ち上がる。 「何をする気だ……」 「君には関係ない」  陶が冷やかに柘を見下ろす。扉の前に控えていた二人の少年に書類を探すよう指示をだし、おのれはピクリとも動かない(リュイ)の傍らへ行ってしゃがむ。白い背中に這う毛の生えた蜘蛛を退け、栗色の髪に潜りこんでいた縞模様の蜘蛛を摘まみ出す。そうやって大小様々な蜘蛛を取り除いた後、背で結わえられた腕の縛めを解いた。 「何故だ……どうして貴様のくだらん私怨に、緑が巻き込まれねばならんのだッ!」  怒気を滲ませた柘の叱責に、陶が隻眼を上げる。 「くだらんとは聞き捨てならん。林宣(リン・イー)は私の腕を妬み、私の片目を潰し、私の洋々たる未来を奪ったのだ」 「それをくだらん逆恨みと言うんだ。林宣という人物が憎いなら、あんたが独りで復讐すればいいだろう。自身で晴らせぬから、緑を使うのか。あんた、くだらん上に腰抜けだな」 「口を慎みたまえ。文龍の前でなければ、ただでは済まさぬところだよ」 「外道のくせに紳士ぶるなよ。助太刀が欲しいなら、おれがしてやろうか。おれは自慢ではないが、剣では些か腕が立つ。父方の祖父が薩摩武士で示現流の極意を心得ている。示現流は闇を得意とする実戦型の流派で、極意は先手の一撃。すなわち闇討ちなら負無しというわけだ。どうだ、あんたと気が合いそうだろう。おまけに緑より背が高く、力もある。おれを使った方が得だぜ」 「残念ながら君では役不足だ。特別な舞台には、特別な役者が必要なのだよ。美しく、心などという余計な(かせ)を持たぬ淫蕩な悪魔。私は長い時間をかけて、それに相応しいようこの子を育ててきた。君のおかげで冷やりとしたが、所詮運命は変えられん。だが君の売り込みは面白かった。口の利き方を憶えたら、そのジゲン流とやらを見せてもらいたものだ」  陶が翡翠の首輪を床から拾い、もとのように緑の首にかけて留める。 「卑怯者ッ!」  柘の罵倒を、横顔で笑い流す。 「これは副葬品だよ。さぞ美しく、この子の骸を飾ることだろう。この子は人ではない、私のつくった人形なのだ。これを舞台に放つのを、私はずっと楽しみにしてきたのだよ。役を終えたとき、これは自ら散っていく。死をもって作品は完成するのだ。この歓びを、君はわかるまい」    陶は頬をゆるめ、うつ伏せている白い裸体を返した。胸から首へと撫で上げる。 (この首輪にしてよかった。白い肌に翡翠の(ぎょく)は良く映える。だが瞼が閉じていては、眼球との共演ができないではないか。死んでも瞼がおりない方法はないものか?)  瞼を見つめながら思案する——と、ふいに瞼がひらき、恐ろしいほど澄んだ翡翠色の眼が陶を見据える。 「……胡蝶」    陶は息を凍らせた。緑の白い手指が陶の手首を掴んでいた。
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