第1話

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第1話

 分厚いファイルを山と抱えた京哉(きょうや)は苦労してドアを開けた。  上手く互い違いに積んだ筈のファイル群は廊下を歩いている間に微妙にずれ、今はグラグラとまるで柔らかな寒天の如く揺れている。作業を繰り返し、既に腕の感覚も鈍く疲れていた。  そしてゴール地点の強行犯係まであと僅かという所で笑い声が聞こえた。 「京哉、お前また幽霊署員だぞ」  ノートパソコンを前に大笑いしながら声を寄越したのは相棒(バディ)信輔(しんすけ)だ。馬鹿デカい笑い声に強行犯係の同僚だけでなく、居合わせた盗犯係や知能犯係に暴力犯係の人間まで集まってきて信輔のデスクに群がり、ノートパソコンを指差して笑い出す。 「何で僕がまた幽霊署員なんだよ?」  京哉自身でさえ『また』と言わねばならないのは悔しいが、それも仕方ない。普段から様々なシチュエーションで何故か存在を忘れられるのだ。  食堂で京哉の注文した品だけ出てこないくらい日常茶飯事で、更にダメ押しとして先月行われたサッカーチーム優勝パレードの警備の際には、県警本部が作成したシフト表に京哉の名前だけ載っていないというアクシデントまで起きたのである。  ここは首都圏の県下にある真城(ましろ)警察署三階の刑事課だ。皆が刑事(デカ)部屋と呼ぶ室内ではかなりの人数が事件待ちしていた。真城市は大都市の白藤(しらふじ)市と隣接し、ベッドタウンのような位置にあるため、犯罪者の多くは白藤市側に流れて真城管内は非常に治安が良く、故に在署番の刑事たちは大抵ヒマなのだ。  お蔭で京哉の所属する強行犯係も本来の仕事である殺しや強盗(タタキ)に放火その他の凶悪犯罪捜査に従事することは稀だった。そこで普段は他係の聞き込みや張り込みにガサ入れ支援といった下請け仕事ばかりしているのだが、今朝になってとうとう下請け仕事すらなくなってしまい、皆はデカ部屋でトグロを巻いて噂話に興じている。  そんな中で血税を無駄にするまいと一人こうして働いているのに、その自分を笑い者にするとは何事かと、京哉は眉をひそめて皆が見ているものを覗こうとした。  だが前もロクに見えないほどのファイルを抱えていたのだ。一歩踏み出した途端、足元にも積んであったファイル群につまずく。  そこで惨事が起きた。疲れた腕で抱えていたファイルが雪崩を起こし、ザザーッとデスクの地平を流れていったのだ。  勢いで冷めたコーヒーの紙コップが三つぶちまけられ、吸い殻が満載になっていたアルミの灰皿が二個引っくり返った。それだけではない、コーヒーがノートパソコンのキィボードを直撃したのである。 「何てことしてくれるのよ!」  金切り声を上げたのは先輩女性刑事の前原(まえはら)だった。バチッと音を立てたきり何も表示しなくなった目前のノートパソコンと京哉を見比べ、キリキリと眉を逆立てる。  仰け反った京哉はずり下がったメタルフレームの眼鏡を押し上げながら謝った。 「あ、すんません。事故です事故。それに職務中にネットショッピングは拙いんじゃ?」 「余計なお世話よ! 大体あんた、何でそんなもの持ってくるのよ?」 「何でって、もう忘れたんですか? みんなヒマだから資料整理でもするかって、午前中に話したばかりでしょう」 「あんた、ふざけてるの? 資料整理は資料室の中、その場でやればいいじゃない」 「あ……そういうやり方もありますよね」  居合わせた全員が天井を仰いだ。誰もが呆れてものも言えない中、京哉はファイルをかき集めながら信輔のノートパソコンを覗き込む。そこには名簿が表示されていた。 「何なんだよ、これは?」 「この四半期の『真城署内・抱かれたい男ランキング』が発表になったんだ」 「へえ、もうそんな時期だっけか?」  それは真城署に勤務する全男性職員を対象にしたネット投票で、最初は普通の会社でいうなら総務に当たる警務課の婦警たちが密かに始めたお遊びだった。  だがそれがいつの間にか大々的に広まり、今では署内の全女性職員が投票に参加する一大イヴェントと化してしまったのである。 「我が署では外せないこの案件には署内B名簿が利用される。全ての男性職員の氏名が既に記載されたものだ。なのに京哉、そのランキングにお前の名前がない!」  わざと信輔が真面目腐って言い、また全員が大笑いだ。こちらに制服の背を向けた刑事課長の江波(えなみ)警部まで肩を震わせている。前原も怒りを忘れて化粧崩れを気にしていた。 「それもこれで二度目だもんな」 「獲得票ゼロでもランキングに名前は載る筈なのに」 「影が薄すぎるんだ、お前は」 「ときどき大クラッシュする以外、居るのか居ないのか分からないっスもんね」 「ボーッと立ってると本当に幽霊みたいだもの、よく言ったものだわ」  ムッとした京哉は『皆、笑い死ね』と思う。思ったが口には出さず黙って雑巾を持ってくると零したコーヒーと灰皿の始末をした。大量のファイル以外が片付くと前原の視線が避けられなくなる。椅子に腰掛けたまま腕組みした前原は冷たく声を放った。 「それで幽霊署員はあたしのパソコン、調達してきてくれるのよね?」  仕方ない、京哉はファイルを一抱え持つとデカ部屋を出た。  自分がこうしている間も在署番の皆は噂話に興じ、パソコンゲームに熱中し、深夜番と呼ばれる当直を賭けてのカードゲームにしのぎを削り、鼻毛を抜いて長さを比べているのだ。  だが京哉は博打の才能も強靭な鼻毛も持ち合わせがないので、普段からあまり皆に混ざらない。その辺りにも幽霊署員などと言われる理由がある。    資料室も同じく三階にあった。非常に静かな部屋で抱えていたファイルを棚に戻すと、警察庁広域重要指定事件のファイルを収めた棚の前に移動する。そこで一冊のファイルを手に取った。もう何度も目を通したそれは未解決案件に分類されていた。  溜息をつくと何となく振り向いて窓外を見る。暦の上では春だというのに外は寒そうな曇天で、今にも何か降ってきそうな気配だ。そうして眺める角度を変えると窓ガラスは鏡のように室内を映す。  蛍光灯と共に映り込んだのは、ありふれた銀縁眼鏡を掛けて安物スーツを着た自分だ。関東以外なら刑事は普段からラフな格好をしている地方もあるらしいが、ここは一応首都圏である。スーツにタイを締めるのがスタンダードなのだが結構これが懐に痛い。  それはともあれ鳴海(なるみ)京哉、二十三歳。去年の春、巡査部長に昇任した。  ノンキャリアの今年二十四歳で巡査部長二年生は拙くない。公平に見て、むしろ優秀な方である。だが試験に強いだけで周囲の評価はあの通り。おまけに体格は小柄で武道も苦手。警察官に必要な武道の初段取得も警察学校で頭を抱えた教官に大出血サーヴィスして貰ったから今があるのだが。  そんな『美味しくない物件』だと自覚しているが、何故ここまで影が薄いのか分からない。分からないが、それを助長するべく京哉自身も慎重に行動していて、好都合ですらあった。 「ふあーあ、お姐さんのノーパソは警務課か」  欠伸混じりに独り呟き資料室を出る。警務課は六階だがエレベーターを使わず階段をゆっくり上った。辿り着いた警務課の前で深呼吸し、意を決してドアを開ける。  カウンターに近づいて装備係の婦警を目で探した。だが見当たらず拍子抜けする。しかしこのまま回れ右すれば前原に『子供の使い』となじられるのは必至だ。けれど誰かに訊こうにも、その誰かすら所定の位置に座っていなかった。カウンター内は空っぽだ。  だからといって人がいない訳ではない。カウンターの外に人だかりができている。人だかりを形成しているのは制服婦警の一団で、黄色い声が幾重にも上がっていた。  そして婦警の一団に取り囲まれて、かなり長身の男が一人。  きっとあの人だかりの中に装備係も混じっているのだろうと推察したが、まるでバーゲンセールに挑んでいるような女性たちの怒涛の勢いに、京哉は声を掛けそびれる。ここは待つしかないとカウンターに凭れて一息ついた。  ほどなく囲まれていた長身の男が声を発した。大きくはないが低く通る声だった。 「こうして歓迎して貰えるのは有難いが、職務の遂行に支障をきたすようなら、私はここに二度と来られなくなる。それでは困るので各々職分に戻って頂きたい」  まさに鶴の一声というヤツだ。あれだけボルテージを上げていた婦警軍団が素直に従って散会し、持ち場に戻りだす。それでも名残惜しそうな声が飛び交った。
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