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第1話
相棒の巡査長が定期検診で引っ掛かり、重度の胃潰瘍で即日入院したと立花和音が聞かされたのは一週間ほど前のことだった。
三日前には薬で治らず手術が必要だという追加情報がもたらされた。
そして今朝になって胃潰瘍がじつは悪性のもので、あと一ヶ月半は出てこないと女課長の大原警部から告げられた。
確かにバディの病気は心配だったが、まず和音の脳裏をよぎったのは自分の心配だった。
刑事は二人一組のバディシステムが基本である。首都圏の県下でこの紫川警察署の刑事課強行犯係に異動になり、和音はまだ三ヶ月と経っていない。ようやくバディとの動きに慣れてきたばかりだというのに、新たなバディと組まされるのは僅かながら気が重かった。
いや、気が重いだけなら仕事と割り切ればいいのだが、同僚たちの中で浮いた身分の人間は一人もいないのである。つまりよそから新人が異動でもしてこない限り、バディ候補に心当たりがない。
だが殆ど新人同然の和音と更に新人の異動者を組ませることも、現在バディを組んでいる同僚たちを引き裂くこともたぶん、ない。
大原課長もバディについて言及しなかった。とすると可能性としては他のバディに加えられるということである。しかしそれも怪しいものだと和音は思った。
この紫川署管内は非常に平和である。近隣都市が栄えているお蔭で犯罪はそちらに集中し、紫川市内で躰を張った犯罪にいそしむ者はかなり珍しい存在となっているからだ。
刑事課強行犯係は殺しや強盗に放火といった凶悪犯罪の捜査を担当するセクションで、この紫川署に於いては週に五日の『在署番』と二日の『休日』又は『非番で自宅待機』を繰り返していた。つまりは週休二日制のサラリーマンと殆ど同じである。
そしてメインの在署番は事件の知らせを刑事部屋で待つのが仕事だった。
けれど待てど暮らせど強行犯の係が丸ごと出て行くような事件は殆ど起こらない。
仕方がないので強行犯係の人員は他係の聞き込みや張り込み、ガサ入れなどの補填要員として駆り出される以外は、日々デカ部屋でヒマ潰しに明け暮れているのが常だった。
そこで既存のバディ、プラス和音という男三人もの人員が必要な状況など考えられず、結局またも和音は何処かに異動させられる可能性が高くなった、だから気が重いのである。
「おーい、和音! お前もゲームに混ざれ!」
午後一番でデカ部屋隅のソファから大声を張り上げたのは、和音が所属する強行犯一係の係長である秋山警部補だった。和音は手にしていた書類の束を振って見せながら叫び返す。
「この書類が終わったら行きます!」
「書類は逃げねぇぞ!」
再び大声が飛んできたが、もう振り向かない。幾ら平和で犯罪の少ない土地でも、人が人である限り、ごく僅かながらそれは起こる。書類は『ごく僅か』をここ暫く溜め込んだ結果だった。些細なものばかりだが『塵も積もれば』というヤツである。
デスクに着くとポケットを探って煙草を取り出し、一本振り出し咥えてオイルライターで火を点けた。紫煙を吐きながら仕方なくペンを取る。
パソコンのファイルを打ち出した書類だが、手書き部分もしっかり存在していた。今どき何たる無駄かと、一昨日の帰り際に遭遇したコンビニでの万引きの書類を眺めて溜息が洩れる。ちなみにマル被は未成年で生活安全課に引き渡したが、報告はしなければならない。
一枚書いて煙草を消し、残りをペラペラ捲った。本日は既に木曜日である。果たして休日前にこの紙束が片付くのかと考えたが、考えていても書類は消えてなくならない。先日来、盗犯係の張り込み支援に引っ張り出されていたのも確かだが、溜め込んだのは自分である。関係各所から督促メールが来て思い出したときには、既に小山になっていたという訳だ。
「和音、いいから混ざれ!」
「あー、はいはい、今行きますよっと」
またも秋山係長から声が掛かり、諦め気分で和音はペンを放り出し席を立った。背の低いスチールキャビネットを並べたカウンターまで行き、そこで沸いていたコーヒーを自分のマグカップに注ぐ。コーヒーは泥水並みの不味さだが、一ヶ月に五百円徴収される代わりに飲み放題というものだ。最後の一杯を飲んだ者が淹れ直すシステムである。
淹れ直すのが面倒なばかりに少なくなると誰も飲みたがらず、煮詰まってそれこそ胃に悪そうな液体に湯を足し、スプリングのへたったソファに移動した。
情報収集用に点けているTVの前のソファでは、秋山係長と冬柴巡査長に主任の天野巡査部長がポーカーをしていた。本日の深夜番を賭けているのだ、ゲームといえど真剣である。
一方、和音は現在バディがいないので、深夜番は免れていた。
故にまるで和音は関係ないのだが、こうして声を掛けてくれるのは、異動して間もないのにバディもいない和音を気遣ってくれているのだと理解している。秋山係長もわざと口にした。
「優しい上司に涙が出るだろう、和音よ」
「でも俺、書類が溜まってるんですけど」
「そんなこた、分かってるさ」
そう言いながらもベテランの冬柴巡査長は、プロ並みの手捌きで和音にもカードを配るのをやめない。溜息代わりに和音は熱いだけが取り柄の液体を吹く。天野主任が笑って言った。
「まあ、お付き合い下さい。和音、貴方が勝ったら今夜の当直は係長ですから」
ロウテーブルにマグカップを置いた和音は呆れて上級者たちを見る。優しい上司どころか、これで負ければ自動的にそのバディも深夜番に嵌められるのだ。堪ったものではない。
「ふあーあ。バディもいねぇと気が楽だよなあ」
「別に俺自身は深夜番に就いたって構わないんですがね、係長」
「前の彼女とも別れて二ヶ月ちょい、独り身の気楽さってヤツかい」
「何でそこまで知ってるんですか?」
僅かながら眉間に不機嫌を浮かべて煙草を咥えた和音を皆が笑った。だが係長が意外なまでに真面目な顔つきをして和音の言いたいことを先取りする。
「だからって他人のバディを深夜番の片割れに指名するのは気が引けるだろうが」
「それなんですよね、問題は」
「気が引けるようなタマにゃ見えねぇがな」
「危うく係長を尊敬するとこでしたよ」
喋りながら和音は配られたカード五枚をかき集めた。二枚をチェンジすると手役はAのスリーカードという幸先のいいスタートである。元々和音は博打に非常に強い。それを知っていて皆も和音を賭けの材料にしているのだ。
やがて定時近くなり、デカ部屋は汚職や詐欺専門である知能犯係のガサ入れ支援から帰ってきた人員でざわめき始めた。ゲームの参加者も増えたが、予想通りに秋山係長とバディのペーペー巡査である横坂が本日の深夜番に決まったところで和音はゲームを抜ける。
博打に強いのは自覚しているが、和音自身は大して博打に興味がないのだ。
「さて、十七時半になりました。皆さん、定時ですよ。気の毒な深夜番の方々に挨拶して帰りましょう」
涼しい声で天野主任が言いながら手を叩く。在署番は本日も何事もなかったことに感謝し、ホッとした顔つきで係長たちに頭を下げ三々五々デカ部屋から出て行った。
在署番は基本的に二十四時間交代で署に詰める。だがこの紫川署で大人数は不要、非常時の連絡要員である各係差し出しの深夜番以外は帰って自宅待機していればいいだけだ。
但し大事件が起これば何もかもが吹っ飛ぶのも皆が承知している。県警本部の捜査一課を主体にして署内に立てられる帳場、いわゆる捜査本部に組み込まれ、文字通り寝食を忘れさせられて昼夜関係なくホシを追うハメになるのだ。
だが些細な事件・事故にこそ和音は何度も遭遇し書類も溜め込んでいるが、この紫川署に異動になってからの約二ヶ月半、幸い帳場が立つような事件には遭遇していない。これまでになく平和な日々を送らせて貰っていて、何ら不満はなかった。
そこで和音も皆に倣って係長たちに頭を下げ、椅子に掛けていたグレイのダッフルコートを掴んでデカ部屋を出て行こうとしたが、まだデスクに就いていた大原課長に呼び止められる。
「定時過ぎに悪いが、立花和音巡査部長、前へ」
「あ、はい」
長めの前髪をかき上げて課長席の前に立った。綺麗に化粧した大原課長は奇妙な表情を浮かべている。これはバディの病状が相当悪いのかと思い、和音は身構えた。
だがベージュピンクのルージュを塗った課長の口から洩れたのは、意外なことだった。
「立花巡査部長、きみは明日から出張だ。県警本部での研修参加通達がきた」
「明日からとは急ですね。いったい何の研修ですか?」
「わたしも訊きたいところだが、『歳末恒例・都市部警備行動予備研修』だそうだ」
「都市部警備……?」
オウム返しに訊いた和音に大原課長は奇妙な表情を保ったままである。
「『歳末恒例』などと謳っているが、わたしはそんなものなど聞いたことがない。つまり考えられるのは、わたしにも内容を明かせない出張内容ということだな」
デスクに肘をついて両手指を顔の高さで組んだ課長は、部下に降ってきた仕事内容を知らされずに不満且つ、初めてのことに戸惑っているようだった。
それより戸惑ったのは当然ながら和音である。
県警本部など平刑事には殆ど縁のない場所だ。配属でもされない限り、まず足を踏み入れることはない。そんな所で何をさせられるのか、課長ですら分からないというのだ。
だが六歳にして事故で家族全員を亡くし施設で育った和音は、集団生活に慣れているせいなのか、人怖じや物怖じをしない性格である。
「ふ……ん、そうですか。分かりました」
「銃を携行の上、明日は九時に集合だそうだ。本部からメールも届いている筈、目を通せ」
「了解です。けどまだ書類が残ってるんですが……」
「それは残った者にやらせる。心配は要らん。では、武器庫にて銃を受領せよ」
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