食べられたいほど、きみが好き1

1/1
106人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ

食べられたいほど、きみが好き1

「またこんなところで寝てる」  長椅子の肘掛けに寄せたクッションに銀色の髪の毛が広がっている。長椅子は結構な大きさなのに、反対側の手すりから足先が飛び出していた。胸には読みかけの本が、傍らの小さなテーブルにはすっかり冷めたコーヒーが置きっぱなしになっている。 「なになに……薬草学?」  何を読んでいたのか興味があって胸の上の本を覗き込んだ。「薬草学」なんて、まさかそんな本を読んでいるとは思わなくて目を瞬かせる。 (狼でも薬草に興味があるってこと?)  それともガルが人狼だからだろうか。  ガルと出会ったのは半年ほど前だ。僕が住むヤルンヴィッドの森の入り口で座り込んでいるところに出くわした。どうやら左足を怪我して動けなくなっていたらしい。靴まで赤黒くなっているのを見た僕は、放置できずに家に連れて帰った。そうして手当をしているときに「俺はマナルガルム、人狼だ」と名乗ってきた。 (まさか人狼だと自分から名乗るなんて)  まず、そのことに驚いた。そして、この森に人狼がやって来たことに二度驚いた。五十年以上魔女をしていたばあちゃんからも会ったという話は聞いていない。僕にとっても昔話に登場する存在でしかなかった。 (そんなガルが僕と使役契約を結びたがってるなんて、さらに驚くよな)  魔女は様々な生き物を使役する。でも、使役するためには契約を結ばなくてはいけない。  使役獣でよく見かけるのは猫やフクロウで、爬虫類も以外と人気だ。なかには火トカゲや喋る猿と契約する魔女もいる。変わったところではふわふわのハリネズミや羽の生えた蛇、四本足の鷲なんかがいるけど、狼と契約する魔女は聞いたことがなかった。  狼は孤高の生き物で魔女に使役されるのを嫌がる。人狼も狼の一種だから、本来使役契約なんてお断りのはず。 「それなのに、なんで僕なんかと使役契約したがるんだろ」  僕は薬を作るのが少しばかり得意なだけの魔女だ。ばあちゃんみたいに護符が作れるでもなく、母さんみたいに毒に詳しいわけでもない。下手をしたら街に住んでいる人たちと大差ない魔女なのに、ガルのほうから契約したいと言ってきた。 「どうしてかなぁ」と思いながらガルを見る。サラサラの銀髪にすらりとした長身で、閉じている瞼の奥には綺麗なエバーグリーンの眼がある。顔立ちも整っているし、人の街に行けば間違いなくお嬢さんたちが目の色を変えそうな色男だ。それなのに、なぜか森に一人で住む僕のそばから離れようとしない。挙げ句の果てに使役契約まで結びたがる。 「変な狼だよな」  思わず口に出してしまった。「だって本当に変わった狼だし」と頭の中で言い訳しながら、胸に置いたままの本を取ろうと右手を伸ばす。するとその手をガシッと掴まれて「ひゃっ」と情けない声を漏らしてしまった。驚いてガルの顔を見ると、エバーグリーンの眼が僕を見ている。 「使役契約したいのは、アールンのそばにずっといるためだって言っただろ? それに俺は人狼であって狼じゃない」 「ええと、狼って言ったことに関してはごめん。だけど、どうして僕なんかとってやっぱり思ってしまうんだ」 「それは、こういうことする相手だから」  そう言ったガルが僕の右手を引っ張った。慌てて踏ん張ろうとしたものの、間に合わずに寝転んだままの体に覆い被さる。そんな僕を簡単に抱き留めたガルが唇にチュッと触れてきた。 「ガル!」 「何?」 「こういうことは昼日中にしないんだって何度も言ったよね!?」 「そうだっけ?」 「言った!」 「じゃあ忘れてた」 「ガ……っ」  ガルと言おうとした口は呆気なく塞がれてしまった。後頭部に手を回されて逃げ道がなくなる。そのまま少し長くて肉厚な舌に口の中を思う存分舐め回された。 「……はっ、はぁ、はぁ」 「全然慣れないよな」 「ガルっ」 「ま、アールンのそういうところも可愛いと思うけど」 「か、可愛いって、きみは僕より六つも年下じゃないか!」 「年上でもアールンは十分可愛いし、こんな可愛い二十六歳なんていないんじゃないか? 艶々の黒髪も夜空みたいな黒眼も、そうやってすぐ真っ赤になる顔も俺好みだし」  駄目だ、何を言っても言い負かされてしまう。人狼ってこんなに言葉が達者な生き物なんだろうか。六歳も年下の人狼に僕はいつも翻弄されっぱなしだ。 「そもそも人狼と人じゃ年の数え方が違うんじゃないの?」 「そうかもしれないけど、でもきみは人の姿のままじゃないか」 「まぁな。それでもアールンより大きいし力もある。もちろん、アールンを可愛がることもできる」 「ガル!」  もう一度強く名前を呼んだら「わかったって」と言って僕ごと上半身を起こした。人の中ではそこそこの背丈だというのに、こうしてガルは軽々と僕を抱えたり動かしたりする。そのたびに複雑にもなるし気恥ずかしくもなった。 「で、今日の仕事は?」 「まずは薬草棚の入れ替え」 「それは朝やっておいた。ほかは?」 「え? 全部終わったの? 新しく干す分も?」 「終わった」 「それは、ありがとう」 「どういたしまして」  この半年で、ガルは僕の仕事の大半を覚えてしまった。種類別に乾燥させている薬草棚を入れ替えるタイミングも、補充する薬草の採取も僕がお願いする前に終わらせている。そういう意味では、とっくに使役契約を結んでいるような状態だ。 「あとは調合と、夕飯の仕込みくらいだけど」 「調合は俺にはできない。夕飯なら昨日から干しタラを塩抜きしてる」 「いつの間に……」 「港町に住む隠居したばあさんから届いた大量の干しタラを貯蔵庫に仕舞ったのは誰?」 「……ガルです」 「まだ半分以上残ってるから、しばらくは干しタラだな」  僕よりガルのほうがよほど生活能力が高い。食材の管理もいつの間にかガルがするようになった。正直、干しタラの量なんてこれまで気にしたこともなかった。塩抜きのことも忘れがちで、お腹が空いてから「しまった」と思い出すことが多かった。  そんな僕の生活はガルと暮らし始めて一変した。毎日ちゃんとした食事をしているからかすこぶる調子がいい。食材だけでなく薬草を切らすこともなくなったし、資料の本がどこにいったか探すこともない。 (ガルのおかげで家はいつも綺麗だし、すでに使役契約してるみたいな気がしてくる)  ガルは掃除や手伝いを嫌がったりしない。タラばかりの食事にも文句を言わなかった。人狼と言っても狼に近いんだろうから本当は肉が食べたいはずだろうに、文句も言わずに毎日タラ料理を食べてくれる。そのタラ料理も、いまではガルのほうがうまくなった。 (これじゃあ、使役獣に世話をされてるみたいだ)  少しばかり情けなくなっていた僕の耳元で、ガルが「俺が世話を焼くのは食事だけじゃないけどな?」と囁いた。慌てて耳を塞いで「ガルっ」と睨む。 「顔が真っ赤ってことは、言ってる意味わかったんだ」 「な、何のこと?」 「今夜もしっかり世話してやるから安心していいよ」  にやりと笑う顔に、僕は名前を呼ぶことも叱ることもできなかった。代わりにすっくと立ち上がってくるっと背を向ける。これ以上赤くなった顔でいたら何を言われるかわかったものじゃない。  少し急ぎ足で仕事場へと歩き出す。そんな僕の背中に「満足させてやるから楽しみにしてて」とガルが声をかけてきた。  バタン。  仕事場のドアをしっかり閉め、そのままドアにもたれかかりながらズルズルと床にしゃがみ込んだ。 (こんな昼間から何て破廉恥な……!)  そう思いながらも、僕の脳裏にはガルとの行為がまざまざと蘇る。ガルの手に触れられたときの感覚や抱きしめられたときの熱まで思い出し、体が火照りそうになった。体のあちこちが痺れてどうしようもなくなる瞬間やせり上がる快楽、その後訪れる絶頂を思い出しかけて腰がブルッと震える。 「僕こそ昼間から何を」  思わず口に出し、慌てて唇を噛んだ。人狼だというガルは耳がいい。下手なことを口にして聞かれでもしたら、あとでからかわれるのは目に見えている。 (本当にガルって口が達者なんだから)  そのせいで恥ずかしい思いをすることも多いけど、そんなところもいつの間にか好きになっていた。そう、僕はガルに特別な感情を抱いている。  ガルとそういう関係になったのは二月(ふたつき)ほど前だ。三日月を眺めているガルを見て、なぜかどうしようもなく胸が締めつけられた。このまま手の届かないところに行ってしまうんじゃないかと思って心がざわついた。  気がつけばガルに抱きついていた。そのまま僕はガルと関係を持った。 (後悔はしてない)  きっと僕はひと目見たときからガルに惹かれていたんだろう。そうじゃなければ誰だかわからない男を家に連れ帰ってまで手当したりはしない。人狼だと知ったときにはどうしようかと思ったけど、結局追い出すことはできなかった。  魔女は用心深い生き物だ。魔女を誑かす存在はあちこちにいるし、人のような姿をして近づいて来る厄介な魔物や死霊もいる。そういう存在に囚われた魔女の末路は悲惨なものだ。だから、誰だかわからない存在に気を許さないのが魔女のあり方だった。 (まぁ、僕はガバガバだってよく言われるけど)  ガルにそうも言われた。手当してあげたのに、よく考えたらひどい言葉だと思う。 (でも、あの言葉と自己紹介で「大丈夫」って思ったんだよな)  なぜかそう思った。そしてガルは実際に僕を脅かすものじゃなかった。逆にガバガバと言われる僕を助けたり守ろうとしてくれたりする。そんなガルに惹かれたのは仕方がないと思うんだ。 (そもそも一目惚れだったんだろうし)  だから手当をした後も追い出せなかった。人狼だとわかってもなお一緒にいたい気持ちのほうが上回った。 (だから使役契約なんてしたくない)  契約してしまえばガルは僕に従属することになる。そんな関係を僕は望んでいないし、いまのような平等な関係でいたい。 (だって、恋人ってそういうものだろうから)  恋人という言葉に顔が熱くなった。僕はそう思っているし、ガルもそう思ってくれているとは思うけど、やっぱり不安は拭えない。つい、いろいろ考えて迷ったりもする。 (取りあえず、いまは仕事だ)  僕はゆるゆると頭を振り、棚から乳鉢と乳棒を取り出した。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!