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意義と可能性
(早朝って、こんな感じなんだ。いつも陽が昇りきってから通学してたしなぁ)
そんなことを思いながら、まだ夜から起きてこない朝をひとり歩く。
(まだすこし、薄暗い……涼しいな)
駅に着いても人はまばら、顔ぶれも社会人ばかり。以前のように、学生鞄や部活の用具でリュックをいっぱいにさせた学生の姿はない。
本当に街が起き出すということを肌で感じた。
ICカードに行き先分のお金をチャージする。
「片道分だけ、ね」
そう、皮肉を込めてひとりごつ。右の口角が皮肉めいた笑みを作るのに加担するようにきゅっと軽く釣り上がったのが分かる。
何かあった時のお金はまた別のお財布に入れてある。
いざとなったらそれを使って帰ればいい。どこかで2泊と地元に帰れるだけの余りは残してある。
だけど、それらを使う気はさらさら無い。
「だって、もうここには戻らないしね」
吸い込まれていく紙幣と数枚の硬貨たちを眺めながら、ルートを思い浮かべようとしたが、カードの方が出てくるのは速かった。
その速さが私の迷いと不安、不安定な思考回路を断ち切った。
改札口に景気付けとばかりに勢いよくICカードを滑らせる。
不安は、ない。
(嘘だけど。不安はないって思わないと、やっていかれないし)
ゴォ、という風鳴りの音と共にホームに入ってくる電車。
これから私の逃避行の幕開けを彩るような濃い色をした電車、人の少ないホーム。
ぷしゅう、と気の抜けた音となめらかに開くドア。
(そうだ、この逃避行はまだ序章の序章にすぎない、はじまったばかりなんだ。
もしかしたら、はじまってすらいないのかも)
乗り込む車内、人はいない。がらんとした車内は別世界の雰囲気を醸し出しているようだった。
いつもと反対方向の電車。見慣れない景色。
いつもの日常とは違う、コントラストに久しぶりに胸が躍った。
(中学のときの私からしたらまさか半年後の自分がこんな風になってるなんて思いもしないだろうな)
なんて皮肉の笑いを含んだ吐息は発車の合図のベルに消えた。
「遂に出発、か…」
奇妙なほどに頭がはっきりとする感覚に、身体全身の表面は熱いのに、脳の内側だけが気味の悪いほどに冷たく冴えていた。
重だるい腕でスマホのスリープモードを解除しながら惰性で操作する。
部活の先輩や友人たちからの社交辞令と思われる心配の連絡、明日の練習試合の詳細。
モードを解除されたそれがひっきりなしに伝えてくる通知の全てを消し去る。
(私は今、『結城梨葉』じゃない。『黒月鈴音』なんだ)
スマホの電源を落とす。
ガタンと身体が揺れる、滑るように車体が動き出す。馴染みのない景色が後ろ向きに流れていった。
夏…夏、夏。思い出すのは4年前のあの日のこと。去りし日の苦い記憶。脳裏を過ぎ去る『あなた』の面影が。
『りは、りはぁ〜!』
私を捕らえて、
『みて!今日はここまでできたんだ!りははどう?』
離さない。
『これからもふたりでいようね!』
純粋な笑みと涼やかな声が目の裏側に駆け巡る。
太陽に照らされ輝かんばかりの笑顔を湛えるあなたの眼はどうしても、霧に包まれ見ることはできなかった。
脳細胞が弾けた。バチッと目の奥で稲妻が走る。
身体がグラリと激しく揺れるような、高いところから落とされるようなフワッとした不快な浮遊感と共に目を開けた。目の前が霞む、自分が寝ていたことに気がついた。
「次は、泡屋敷、泡屋敷。泡波海浜中央公園にお越しのお客様は次でお降りください」
「お客様にご連絡致します。この電車は車両を取り替えさせていただくため新水面駅でお乗り換えとなります。繰り返します、車両取り替えのため、新水面でお乗り換えとなります」
(しんみなも…次の次か。あわやしき、あわなみ…次か
乗り換え…は関係ないね)
寝起きのぼやけた思考で考える。私が寝ている間に陽はすっかり高く、昇りきっていたらしい。
聞きなれない地名にいつも違う電子アナウンス、車両取り替えという聞き慣れぬ事象と、知らない車掌の声。車窓を流れる景色はすっかり色を変えていた。
一一泡波海浜中央公園。
私と彼女の逃避行はそこからはじまる。秘密の集合場所。
これから先のことなんか何も考えていなかった。
ビジネスホテル、ネットカフェなどは未成年の立ち入りはそもそも禁止、マンガ喫茶も一部店舗は未成年の立ち入りを許可しているところもある。が、金がかかって仕方がない。
(飛び出して早々に足のつかない宿屋全般は潰されたって訳ね。
家出シェルターとか、NPO法人などの公的機関はダメ。頼れない)
たった16の小娘が庇護者の下を飛び出したとて、何者にもなれないことを悟った。未成年は全てにおいて無力だ。世の中の摂理も、社会がどんなふうに在って、どのような廻り方をしているかも分かってない。とてつもなく自分がちっぽけだと。なんの因果と皮肉か。偏った思考でしか考えることができない。
私の数時間前、突発的に計画そして実行された逃避行に意味はないのかもしれない。
家が辛かったわけでも、プライベートが充実していなかったわけでもない。
すこしの本当と嘘を綯い交ぜた言い訳を自分の中に、誰に訊かせるわけでもなく垂れ流す。
ただ『平等に不平等』なこの世界がすこし嫌になった、逃げたかったんだ。逃げ出したく、すべてを投げ出したくなってしまった。
自分の脈絡のない、止まることを知らない。幼く尖った、生産性のない感情からそっと、逃げながら。横目で見ながら自分にとって都合の良い、綺麗な言葉を自分の中に紡ぎ出していく。
たとえ、意味や意義があろうとなかろうと、私は見出したい。
自分の可能性を。
一一多くの人が初めて自分の可能性を信じながら、それその可能性を自分の持ちうる全てを懸けて泥臭く足掻き、挑戦する場所で。私が、私だけのために極められる唯一を、自分自身が輝ける何かを見出したい。私も何かを見つけたいと思った。
だって、それは「結城 梨葉」にしかできないことだから。
3年間という限られた時間の中で。
一一初めて自分のいろんなものに強制的に気付かされる場所であり、絶望する期間に。他と違う、なにかをしたい。得たい。
狭く、数字的評価が全てで排他的の冷たい監獄、クローズドインコミュニティの中で、私が見出そうとしているものは異端でしかないのかもしれない。
大人たちは皆、私たち「生徒」に常に「普通」で在ることを望むから。
いつだって大人たちは私たち生徒を護るフリをして自分に都合が悪いことには蓋をする。何故かって?面倒臭いから。巻き込まれたくないから。
人間だれだって、自分が一番かわいいから。
高校に入学してからいろんなたくさんの価値観と大人に出逢ってきた。
ゴミみたいにクローズドな空間に蔓延る偏った価値観とそれらの言葉・考えを鵜呑みにしてしまう頭の弱い、人としてクズみたいな大人共。
轟音とともに車窓の見慣れぬ景色が黒に染まる。軽い耳鳴りがトンネルに入ったことを知らせる。
碧い春の中を過ごし、輝く太陽のように笑い合う友人らを遠巻きに眺め、自分の中の憤りと幼稚な怒りを見過ごすために、諦念と呆れをため息に返還した。
それでもなんとか、閉ざされた空間の中で敵を作らずうまくやっていく。
「結城 梨葉」を演じるためには笑顔という仮面は必要不可欠なものだった。
物事を円満かつ円滑に進めるためだけに感情を殺し、己の口を自分から塞ぎ。周りから聴かれ、わからないまま、わからないなりに答えた解もその周りに潰される、を繰り返して、気がつけば自ら閉ざすようになっていた。
そこに他意が無ければ異心もない。理論、そして倫理的・合理的にしか事象を考えられなくなった脳は、いつしか心を頭で考えるようになってしまった。
窓に黒を湛えそれに反射する自分の顔はなんの表情も無いままに死んでいた。
それを客観的に見ようとしている自分に驚く。
窓が黒を抜け、見慣れぬ景色を再度連れてきた。
車内アナウンスと聞き慣れぬ車掌の声。
「まもなく泡屋敷、泡屋敷に到着します。お出口は右側です。泡波海浜中央公園にお越しのお客様はお降りください」
「お降りの際、お足元のお気をつけください、忘れ物ございませんよう、ご注意ください」
柔らかな声とともに徐々に減速していく車体。見えるホーム、人はいない。
ゆっくりと開いたドアは夏の匂いを連れてきた。
踏み出す一歩は心無しか震えていた。
「待っててね、舞ちゃん」
事前に調べておいた、不確かな記憶を頼りに待ち合わせ場所である泡波公園を目指す。
「…ここ」
そこは駅直通、大きな噴水のある公園だった。
ふたりの待ち合わせは泡波噴水前。
そこに、ある人影を見つけた。
「っ…!」
ドクリと肋骨の裏で跳ねる心臓。
震える足に力を込め、うだるような暑さをかきわけるように動かす。
真夏なのに、吐く息がよく見えるようだった。
誇張でもなんでもなく私は内側から、震えていた。恐怖とも、畏怖とも、似ても似つかない。そんなはじめての感情との出逢いに、私は酷く戸惑っていた。
平日の真昼、人はいない。
日陰に佇む噴水、濃い緑に覆われているそこは神聖な空間、神の領域のようだった。
徐々に近くなるその人、疑惑が確信に変わる。
白いノースリーブのシンプルなワンピース。
麦わら帽子の影になる横顔、目元は見えない。
俯いていた顔が音もなくふっ、とこちらを向く。
「……」
「…っ」
日陰に佇んでいたその人は私の姿を認めると明るい光の下に出てきた。
息をすることを忘れるほどに、驚いた。
二重で黒目がちな瞳は地面から照り返す陽の光によって、虹彩を茶色に染め上げていた。
形のいい唇に、夏には似つかわしくない雪のように白い肌。
肩甲骨まで伸びる、手入れの行き届いた艶のあるまっすぐな黒髪はやはり太陽の光を受けて茶色に輝いていた。
すらっとした華奢な体躯、細い線。
突如、その人は桜色の唇がきゅっと口角を上げ、二重の綺麗な瞳が人懐こいアーチを描き、
「音羽 舞です」
軽やかな、鈴を転がしたような声で自分の名を名乗った。
「…黒月 鈴音、です」
「鈴音、待ってたよ。私、舞だよ」
澄んだ瞳が私を捉える、私の存在を確かめるようにもう一度、自分の名を念押すようにはっきりと呟く。知らない間に、なおかつ自然に、彼女によって繋がれた手に引かれ、日陰に連れられた。
「ま、舞…私、鈴音っ。待っててくれてありがとう、わたし、ちゃんと来たよ、舞のとこ」
「うん、うん。ありがとね、ここまで来てくれて。不安だったよね。
鈴音、私と出逢ってくれてありがとう」
あの日に置いてきたはずの記憶の欠片が哀を呼び起こした。視界が滲んでゆく、食いしばった歯の間から溢れていたのは。
それを認めると同時に優しくぶつかってくる、驚きもせず身体全体を包む彼女の温度。
熱い雫が私の頬を伝い、彼女の純白にひとかけらのシミを作る。
そっと背に回る暖かい手のひらと、すぐそばを香る柔軟剤の気配。
ひんやりとしている濃い緑と噴水が造る日陰と涼しさ、私たちの周りだけはすこし温度が上がったような気がした。
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