第一章 樹下の接吻

11/18
286人が本棚に入れています
本棚に追加
/136ページ
 物心ついたときから、父はいなかった。  死別なのか、離縁したのか、母から訊いていないのでわからない。    子供ながら、伯爵には心の底から感謝した。  親のない子供の末路は哀れだ。  あのまま英国にいたら、劣悪な環境のなかで末は野垂れ死か、せいぜい犯罪者として生きていくぐらいが、関の山だっただろう。  そうは言っても、慣れ親しんだ故郷を離れることは正直、怖かった。  しかも日本は欧州からはるか遠くの極東の地。  幼いころ、母からよく日本の思い出話を聞かされてきたとはいえ、知っていることはほんのわずか。  日本語も挨拶程度しかわからない。      だから、長い航海の間、いつも不安で心が押しつぶされそうになっていた。  夜、甲板に出て、暗黒の海を眺めながら身投げしようと思ったことも一度や二度ではなかった。  けれど、できなかった。  そこまでの勇気は持ち合わせていなかった。  そうやって逡巡(しゅんじゅん)しているうちに、船は横浜港に到着した。  タラップを降りると、出迎えに来ているのは、あたりまえだけれど日本人ばかり。  容貌も服装も英国人とはまるで違う。  そして、すれ違うたびに、彼らは自分に好奇の目を向けてきた。  
/136ページ

最初のコメントを投稿しよう!