第1話

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第1話

 ノートパソコンの電源を落とし、灰皿や湯呑みも綺麗に片付けて京哉(きょうや)が時計を見ると、丁度定時の十七時半だった。  右側のデスクに就いた上司二人に対して頷き、帰宅許可を降ろす。  油断するとオンライン麻雀で遊んでいるか、居眠りをしているかの上司たちに檄を飛ばし続け、今日の分の書類は何とか関係各所に送ることができて満足していた。 「じゃあ霧島(きりしま)警視、帰りましょうか」 「ああ。久々の定時帰りだな、鳴海(なるみ)巡査部長」  定時帰りが久々なのは隊長の霧島が『書類は腐らん』と豪語して憚らず秘書の京哉が日々代書に追われていたからだ。  だが明日からの三連休を前に京哉は霧島からクルーザーでの小旅行なるエサをぶら下げられ、督促メールの届いていない書類まで終わらせてしまったのである。  あとは大事件でも起こらなければ霧島と二人きりで過ごせるのだ。しかしそこで副隊長の小田切(おだぎり)が情けない声を出す。 「京哉くん、俺も帰りたいんだけどな」 「だから帰っていいって言ったじゃないですか」 「帰りたくてもこれが乗っかってるんだ」  何かと思って京哉は立ち上がると上司たちのデスクを回り込んで覗いた。すると小田切の膝には三毛猫が丸くなって気持ち良さそうに寝ている。だがタダの猫ではなく野良でもあり得ないほど、えげつないまでに凶暴なオス猫だ。  このケダモノは人の膝に乗っていながら触るとしっぽを膨らませて「シャーッ!」と吼え、研ぎ澄ませた爪と牙を剥き血を見ずには済ませない。 「ミケ、ミケ、こっちにおいで」  と、京哉が呼びかけたが耳も動かさずガン無視だ。一応ここにつれてきた責任者として何とかしてやりたかったが、ミケの恐ろしさを一番知っているのも京哉である。 「仕方ないですね。お腹が空いたら起きますよ。じゃあ」 「『じゃあ』ってそんな……」  ここは首都圏下の県警本部庁舎二階にある機動捜査隊・通称機捜の詰め所だ。  機捜隊員は普通の刑事と違い二十四時間交代の過酷な勤務体制で、ここでは三つの班に分かれてローテーションを組んでいる。覆面パトカーで密行警邏し、殺しや強盗(タタキ)に放火その他の凶悪事件が起こった際に、いち早く現場に駆け付けて初動捜査を行うのが職務だ。  だが隊長と副隊長にその秘書は内勤が主で定時出勤・定時退庁する毎日だった。特筆すべき大事件でも発生しなければ隊長自ら現場に臨場することはない。  大事件が起きずとも出て行きたがりデスクワークを放擲する癖のある隊長を留め、または出動すべきか見極めるのも相棒(バディ)でもある京哉の仕事のうちだが、大抵は止めても無駄で付き合うハメになる。  ともあれ内勤三人組は土日祝日も基本的に休みだ。そして今日は嬉しい週末、金曜日である。京哉はとっとと帰りたかった。  けれど霧島と京哉が県警本部長から下された特別任務におまけで付いてきたミケは自宅マンションがペット禁止だったために、二十四時間いつでも人がいるのを幸いと機捜で飼うことに決めたが、未だにミケは誰のいうことも聞かない。  誰にも口外できない極秘の特別任務は毎回内容が激しすぎ、日本の警察官としての職務範囲を大きく逸脱している。そんな状況でテロリストとフットボールの如く奪い合いされたミケも激しい性格になってしまったのだ。  京哉の頭上から覗いた霧島が動くに動けない小田切を鼻で嗤う。 「ふん。『人タラシ』の貴様は猫タラシでもあったとはな」 「確かに小田切さんはミケに好かれてますよね」 「そのまま休み明けまで猫のベッドになっているがいい」  異動してきたその日のうちに霧島から京哉を奪う宣言をぶちかました小田切だが、今は生活安全部(せいあん)の生活保安課長である香坂(こうさか)警視なる縒りを戻した恋人がいた。浮気すると腹に膝蹴りというなかなかの愛情表現をする御仁だ。  お蔭で京哉にちょっかいを出すこともなくなったのだが、変わらず霧島は小田切に冷たいままだった。そんな霧島の灰色の目を見上げて京哉はたしなめ、口先だけで小田切を慰める。 「今夜の当番さんがエサを出したら退きますって。それまで我慢していて下さい」  本心では霧島の言葉に同調し、京哉は小田切が休み明けまでミケのベッドでも一向に構わなかった。既に心はクルーザーに飛んでしまっている。そんなメタルフレームの眼鏡越しに黒い瞳を輝かせている鳴海京哉は二十四歳だ。  機捜隊員でありながら非常勤のSAT(サット)狙撃班員でもあった。県警本部長直々の命令でスペシャル・アサルト・チームの狙撃班員になったのは京哉が元々スナイパーだったからである。  幾ら警察官でもスナイパーとして存在するのはSAT狙撃班員くらいだ。故に元々スナイパーというのは合法ではない。暗殺者だったのである。  好きでやっていた訳ではなく陥れられたのだ。  高二の冬にたった一人の肉親だった母を犯罪被害者として亡くし、大学進学を諦めて警察学校に入校した。その入校中に抜きんでた射撃の腕に目を付けられ、課程修了して配属寸前に亡き父が強盗殺人犯だったと脅されたのだ。あくまで脅しで罪も捏造だったが京哉は嵌った。  政府与党重鎮と警察庁(サッチョウ)上層部の一部や国内外にあまたの支社を展開する巨大総合商社の霧島カンパニーが極秘裏に組織した暗殺肯定派の実行役として本業の警察官をする傍ら、五年間も暗殺スナイパーとして産業スパイや政敵の暗殺に従事させられていた。  一度たりとも外さなかったその数、三十余人にも達する。  結局は霧島と出会ったのがきっかけとなり消される覚悟でスナイパー引退宣言し、案の定、京哉自身も暗殺されそうになったが、間一髪で霧島が部下を率いて飛び込んできてくれて命を存えた。  そのあと警察の総力を以て京哉がスナイパーだという事実は隠蔽されたためにこうしていられるのだが、京哉は自分が撃ち砕いた人々の顔を忘れない。忘れられなかった。  そのため心の一部が壊れ気味なのだが、バディで一生のパートナーを誓った霧島も共に背負うと言い、全力で護ってくれるために、癒される日々の積み重ねにより壊れた心の部分もあまり意識せず暮らしていられるのだ。  その霧島(しのぶ)はハーフだった生みの母譲りの灰色の目が印象的な二十八歳である。  若くして警視という階級にあり機捜隊長を拝命しているのは最難関の国家公務員総合職試験を突破したキャリアだからだ。更に霧島カンパニー会長御曹司でもあった。  京哉を助けた一件で霧島カンパニーはメディアに叩かれ、株価が大暴落して窮地に陥った。だが数ヶ月を耐え抜いて現在は持ち直し、却って株価は上昇している。  お蔭で警察を辞めても霧島カンパニー本社社長の椅子が待っているのだが、本人は現場のノンキャリア組を背負うことを何よりも望み、警察を辞める気は欠片もない。  そもそも霧島は実父である霧島会長を蛇蝎の如く嫌っていた。目的のためなら手段を選ばないからだ。裏での悪事の証拠さえ掴めたら逮捕も辞さないと明言している。  今では京哉の方が会長を御前と呼び親しんでいるくらいだった。裏の世界にも身を置いてきた者同士、黒い話も出来て気が合うのである。  とにかく霧島は常日頃からオーダーメイドスーツに百九十センチ近い長身を包み、一見スリムで四肢も長く、端正な顔は怜悧さすら感じさせるほどの容姿端麗ぶりだ。  おまけにあらゆる武道の全国大会で優勝を飾っているという、眉目秀麗・文武両道まで地でゆく、他人から見れば非常に恵まれた男である。  そんな超優良物件が女性の目と興味を惹かない筈はなく『県警本部版・抱かれたい男ランキング』で数期連続トップを独走しているが、本人は純然たる同性愛者でその事実を隠してもいない。だから京哉は多少安心していられるのである。  しかし霧島と一緒にいる以上、どうしても目立ってしまう京哉自身も最近はランキング上位に食い込んできて、更には『鳴海巡査部長を護る会』なるものまで警務課・総務課の制服婦警を中心に結成され、却って霧島を不安に陥れる結果となっていた。 「ちょっと待ってくれ、今日は十八時に(りょう)と待ち合わせなんだ。頼むよ」  情けない声で縋る小田切基生(もとお)の階級は警部で二十六歳である。  一応これでもキャリアで霧島の二期後輩に当たる。京哉と同じくSAT狙撃班員でもあった。霧島より少し低いくらいの長身で、自称・他称『人タラシ』だ。タラシすぎて上に睨まれ、たらい回しの挙げ句にこの機捜に辿り着いたという経緯がある。  何れにせよ約束を破って香坂と破局されたらまた鬱陶しいことになると思った京哉は、暗殺スナイパー時代に自分を目立たなくするアイテムとして取り入れ、そのまま顔の一部として馴染んでしまった伊達眼鏡を押し上げつつ、詰め所内の冷蔵庫からタッパーウェアを出し、ミケの大好物である竹輪をひとかけら取り出す。
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