【一】シナゴの話

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 梨野春花(なしのはるか)と、試験用紙に名前を書いた。年齢欄には、四十歳と書いた。私は今では珍しくなりつつある昭和生まれだ。それも、第二次氷河期に襲われ就職活動に失敗し、ド底辺ザ底辺を地で行く喪女であり、これまでの間は、若くして交通事故で逝ってしまった両親の遺産を食い潰しながら、ジャージを纏って、引きこもり生活を送ってきた。だが、役所に人は、私のことすら逃してはくれず、怯えながらネット通販で私服を購入し、ボサボサの髪を結いゴムで整えて、私は試験会場へと向かった次第である。  ちょっとだけ、ちょっと我慢すれば、終わりだ。  何度も念じた私は、会話の仕方は――限界オタクなので、SNSの音声関連アプリで鍛えていたので問題は無かったので、無理にテンションを上げて喋りながら乗り越えた。  それから、一ヶ月後。  戻ってきた引きこもりの平穏生活の中、私はその日もSNSで世界を見ていた。  どのようなジャンルのアカウントでも、落下してくる物質についてや病気の話ばかりだ。物質というか、眼球付きのその存在は、全身に、『シナゴ』と日本語のカタカナで読み取れる文字らしきものが書かれているので、今では公式的に『シナゴ』と呼ばれている。  あと三日もすれば、最初の一体目が、よりにもよって日本海に落下するらしい。  私の家は北関東なので、近いようで遠い。世界規模で見れば近いかもしれないが、東京湾なんてみたこともない。そう考えながら、冷房をガンガンにした室内で、私はもう六月も半ばだというのに長袖のパーカー姿でSNSに勤しんでいた。  ピンポーンと音がしたのはその時で、そういえば昨日ネットでズワイガニを頼んだんだったなと思い出す。立ち上がって、私は玄関へと向かった。 「はーい」  宅配業者以外来ないので、インターフォンを見ずに、私は扉を開けた。 「梨野春花さんですね?」  すると眼前に、黒いスーツ姿の青年が立っていた。  私より若く見える。多分、三十代前半だ。焦る。しかもイケメンだ。黒い髪に黒い切れ長の目をしている。繰り返すがイケメンだ。私は顔を背けた。眉毛はボサボサ、お肌はガサガサ、手入れをしていない私は、自分の顔が嫌いである。手入れをしてお化粧をしたらもうちょっとはマシになるかもしれないが、やる気も起きない怠惰な人間なのである。
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