第1話

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第1話

「わあ、すごいすごい、あんなに積もってきた!」  メタルフレームの伊達眼鏡を中指で押し上げ、リビングの窓外を眺めて京哉(きょうや)は歓声を上げた。真冬の夜の凍てついた空気をたっぷりと含んだ綿雪がふわりふわりと舞い落ちてくる。眼下の地上は既に白一色に塗り替えられていた。  吐息で曇る窓を幾度も手で拭っては、京哉は頬を緩ませている。  そんな年下の恋人の背後に立つ霧島(きりしま)は苦笑しながら頭上から低い声を降らせた。 「喜んでいる場合ではないぞ。下手をすると警邏もままならなくなるのだからな」  二人は共に警察官で県警本部にて霧島は機動捜査隊・通称機捜の隊長を拝命し京哉はその秘書を務めている。元々秘書という職掌は存在しなかったのだが、所轄署から京哉が異動を余儀なくされた際、機捜隊長の霧島が京哉を預かるため半ば強引に新設したのだ。  結局現在は秘書たる京哉がサボりがちな隊長と副隊長の面倒を見るハメになっている。  しっかり働く京哉も、その目を盗んではノートパソコンでオンライン麻雀対戦をしたり空戦ゲームに嵌ったり一週間のメニューレシピを検索したりして、合間に職務に励む隊長と副隊長も内勤が主で余程の大事件でもなければ出動しない。定時出勤・定時退庁する毎日だった。  何もなければ土日祝日も休みである。  だが機捜の一般隊員は普通の刑事と違い二十四時間交代という過酷な勤務体制で、日々覆面パトカーで警邏せねばならない。警邏しつつ不審者には職務質問(バンカケ)して過ごす。そして指令部から殺しや強盗(タタキ)に放火などの発生の一報が入った際には、いち早く駆けつけて初動捜査に就くのが職務だ。  しかしそれも積雪が多ければ支障が出ることもあった。 「子供でもあるまいし、雪で喜ぶのもどうかと思うぞ」 「そうでした。みんなが困るんですよね、すみません」 「実際に困るのは整備課の奴らだ。朝のうちにタイヤを履き替えるかどうか悩むのは彼らであって、機捜はそう困らん。だから謝らなくてもいいが取り敢えず今、一緒に困って貰いたい」 「えっ、何を困っているんですか?」 「豚肩ロースのポットローストを製作中なのだが、ローズマリーが切れていた」 「でも今なら急げば買い物も間に合うんじゃ?」  言いつつ京哉が時計を見ると二十一時半だ。歩いて七、八分のスーパーカガミヤの閉店は二十二時である。そこで寝室に赴くとチェックのシャツとセーターにジーンズの上からショルダーホルスタで銃を吊り、紺色のダッフルコートを羽織った。  霧島も同じく銃を吊ってドレスシャツとスラックスの上からジャケットと黒いチェスターコートを羽織る。  更に二人は色違いお揃いのマフラーを巻いた。素材が良く暖かい。  のんびりしてはいられないが、玄関で靴を履く前にソフトキスを交わす。 「すまんな、せっかくの休みの最終日に寒い思いをさせる」 「構わないですよ、(しのぶ)さんのポットローストは楽しみですから。それに明日から食事当番の僕としては、もう少し食材を買い足しておきたかったんで丁度いいです」  五階建てマンション五階五〇一号室のドアを開けると冷たい空気が足元から這い上ってくる。寒さに身を固くしながらキィロックしエレベーターで一階に降りた。  エントランスから出ると更に寒さは厳しくなったが、十センチほども積もり、まだまだ舞い落ちてくる雪に京哉は足取りも軽くまた頬を緩ませている。  たしなめられても嬉しいものは嬉しい。  そうして二人は傘も差さずに歩き始めた。銃を携帯している以上、もしものことを考えると視界を遮り手も塞ぐ傘など持つ訳にはいかない。  新雪に足跡を付けながら霧島は愉しげな京哉を見て灰色の目を眇める。小柄な京哉の頭に積もった雪を時折払い除けてやりつつ、住宅街の小径を歩いた。  雪で子犬のように喜んでいるのは鳴海(なるみ)京哉、二十四歳で階級は巡査部長だ。機捜隊員でありながらスペシャル・アサルト・チームの非常勤狙撃班員でもある。  SAT(サット)狙撃班員になったのは京哉が元々スナイパーだったからだ。幾ら警察官でもSAT以外のスナイパーは無論違法である。やりたくてやっていたのではなく陥れられていたのだ。  女手ひとつで育ててくれた母を高二の冬に犯罪被害者として亡くし、天涯孤独の身になった京哉は大学進学を諦めて警察学校を受験し入校した。だがそこで抜きんでた射撃の腕に目を付けられ、警察学校を修了し配属寸前で呼び出され告げられたのだ。  お前が顔も見たことのない亡き父は強盗殺人犯だったと。  実際にそれは冤罪というより罪の捏造で京哉は嵌められたのである。  だが逃れるすべを持たず、政府与党の重鎮や警察庁(サッチョウ)上層部の一部に巨大総合商社の霧島カンパニーが組織した暗殺肯定派から命じられるまま、警察官として勤務する傍ら五年間も政敵や産業スパイなどの暗殺スナイプに従事させられていたのだ。  結局は霧島と出会って決心した京哉は『知り過ぎた男』として消されるのを覚悟でスナイパー引退宣言をし、案の定自分も暗殺されそうになったが、霧島が機捜の部下を引き連れ飛び込んできてくれて命を存えた。  そのあと京哉がスナイパーだった事実は警察の総力を以て隠蔽されたために現在はこうしていられるのだ。  けれど京哉は自分が撃ち砕いてきた人々を決して忘れない。忘れられなかった。  大量の人々の墓標を心に打ち立ててしまった京哉は、意識せず時折心が壊れた言動をする。霧島曰くPTSDでもあるらしいが、こうして四六時中ずっと霧島が一緒にいてくれて、忘れはしなくても心の壊れた部分は随分と癒された気がしていた。  警察官としての相棒(バディ)であり、一生のパートナーを誓った霧島も一緒に背負うと言ってくれている。それに京哉を助けてくれた件で霧島も警察その他の『上』に関し通常ならば『知る必要のないこと』を山ほど知ってしまい、お蔭で霧島と京哉は二人して『上』から上手く使われるようになった。  平たく言えば県警捜査員としての職務を大きく逸脱するような特別任務をたびたび下されるようになったのだ。代わりに更なる『上』の秘密も握り、総理を通して国連事務総長から謝辞を貰ったりしているのだが、秘密を握り合うことはさておき謝辞など要らず、平和な日常が欲しい今日この頃といった二人である。  そもそも自分が罪人だと元から認識していた京哉はともかく、国内に留まらない激し過ぎる特別任務では、生きる側に回りたければ敵をまともに撃たなけらばならないシチュエーションもザラとなってしまい、京哉が絶対にさせたくなかった霧島による殺人さえも避けられなくなってしまったのだ。  エスカレートする特別任務は県警本部長からの下命だが、じつは本部長を経由しているだけで依頼主が自衛隊だったり日本政府だったり某大国だったり国連安保理だったりするのだから仕方ない。仕方ないが京哉は本当は哀しかった。  京哉の重たい罪を全てを一緒に背負ってくれると言った霧島は警察官の鑑と誰もが認める男である。霧島自身も人命至上主義を貫き実践していた。それなのに京哉と関わり要らぬことまで知ったせいで京哉と同じ処にまで堕ちてしまったのだ。  この上は京哉だって何があっても逃げず霧島と共に二人で二人分の罪を背負い、納得して自分たちなりの生涯を生きてゆくしかない。死者に恥じないよう前を向いて。  たぶん自分たち二人はどちらもたった一人で立ち向かえるほど強くないのだ。以前霧島にも言われたが二人を足して二で割れないのだ。きっと割ったらだめになる。  代わりに割らずに二人でいたら、どんな時でも背を預け、命を預け合える。  そんなことを思いながら、京哉は自分と霧島の左薬指に嵌ったプラチナのペアリングを見比べた。二十四歳の誕生日に霧島から贈られて嵌めて貰った宝物だ。 「どうした、手が冷たいのか? ならば繋いでやるから寄越せ」 「はい。忍さんの手、あったかい」  手を繋いで優しいまなざしを京哉に向ける霧島忍は二十八歳、階級は警視だ。この若さで警視の階級にあり機動捜査隊長を拝命しているのは最難関の国家公務員総合職試験を突破したキャリアだからである。更に霧島カンパニー会長御曹司でもあった。  故に警察を辞めたら霧島カンパニー本社社長の椅子が待っているのだが、本人は現場のノンキャリア組を背負うことを何より望み、警察を辞める気は欠片もない。それどころか実父の霧島会長を毛嫌いし、裏の悪事の証拠さえ掴めたら逮捕も辞さないと明言しているくらいだ。  京哉の方が会長を『御前』と呼んで親しんでいる。  霧島会長を嫌うひとつには自らの生みの母を愛人にしたという理由もあり、その生みの母はハーフで霧島も母譲りの灰色の目をしていた。顔立ちは涼しい切れ長の目にすっと通った鼻筋、シャープな輪郭で怜悧さすら感じさせるほど端正である。  おまけに霧島会長との取引で唐突にパーティー等に出席することがあるため、普段から着用しているのは高級インポート生地のオーダーメイドスーツで、裾を颯爽と翻す百九十センチ近い長身は鍛え上げられ、あらゆる武道の全国大会で優勝を飾っていた。    まさに眉目秀麗・文武両道を地でゆく、他人から見れば非常に恵まれた男だった。  お蔭で職場の県警本部では『県警本部版・抱かれたい男ランキング』でここ数期連続でトップを独走している。だが同性愛者なのを隠してもいないので京哉はやや安堵していられるのだ。  逆に元は異性愛者だった京哉の方が警務部や総務部の制服婦警から『鳴海京哉巡査部長を護る会』なるものまで結成され『ランキング』でも票を伸ばしてきたために、霧島こそ最近は心配で堪らないらしい。  だが年上の男のプライドが邪魔して機捜隊員にもバレバレなのに無理に涼しい顔をこさえながらも不機嫌という一見に値する状況なのだ。  そんなことを考えて京哉は緩み切ってしまいそうな頬を引き締め、暗殺スナイパー時代に自分を目立たなくするアイテムとして導入した野暮ったいメタルフレームの伊達眼鏡を外し、吐息で白くなったレンズをコートに擦りつける。  伊達なので生活に必要ではないのだが、かけ慣れてしまった今ではフレームのない視界は落ち着かないのだ。おまけに僅かなりとも顔立ちを誤魔化せると言い霧島が他人の前では『掛けていろ』と五月蠅い。 「うーん、拭いても拭いても白くなっちゃうなあ」 「今だけなら外しておいて構わんぞ?」  言うなり霧島は京哉の眼鏡を取り上げ自分のチェスターコートの内ポケットに入れた。そうして素顔の京哉を見下ろして口元に笑みを浮かべる。  白く整った横顔をこうして鑑賞できるのは自分だけという独占欲を満たし、足取りまで軽くなった。
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