第1話(プロローグ)

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第1話(プロローグ)

 真山幹夫(まやまみきお)宛のメールを何本か読み流してデリートしたのち、最後に違う名義宛の一本に男はやや目を眇めた。携帯の画面にタッチして内容を表示する。  ごく短いメールだった。  一瞥して分かる程度のものを暫く目に映して、待っていたものが久々に来たという少々逸る思いと、またしてもこの自分が必要とされる状況にあいつが陥った事実に対する憂いの両方を同時に抱えた。  それもデリートしてしまうと携帯は殆どデータが空になる。警察その他のサイバー専門職なら何かの履歴的なものは拾えるかも知れないが、取られて拙いデータを通常手段で見ることはできなくしてあった。  一応は派遣会社の仕事に就いているが、職場関係のメアドは職場のPCに、電話も全て職場のものを使用している。  それでも今どき携帯すらないのも不審な上に、やはり真山宛ではないメールを待つ身としては携帯くらい持たざるを得ない。ただ、これ一台で本来の自分に辿り着くことはまず不可能と言っていいほどシンプルな状態のままにしてあった。  仕事を上がって帰ってきたばかりの男は寝室で服を脱ぐ。喫煙欲求を無意味に我慢して吊しのスーツをクローゼットに収めると、代わりにオーダーメイドのダークスーツを一式出してハンガーに掛かったままクローゼットの扉に引っ掛けた。  同じくクローゼットからショルダーホルスタに入った銃も取り出す。  洗面所に向かうとドレスシャツや下着類を洗濯乾燥機に放り込みスイッチを入れ、自分はバスルームでシャワーを浴びた。固形石鹸で全身を洗って丁寧にヒゲも剃る。  バスルームを出て身を拭い、寝室に戻って真新しいドレスシャツとダークスーツのスラックス、ショルダーホルスタを身に着けた。ヒゲを剃った時も、今こうしてタイを締めていても、鏡に映る自分の顔は整形してまだ馴染みが薄く他人のようである。  腕時計を嵌めて時間に随分と余裕があるのを見取り、リビングのソファに腰掛けてようやく煙草を咥えると火を点けた。一本をゆっくり灰にしながら、また立つと冷蔵庫の水のボトルを出してきて冷水と紫煙とを交互に口に運ぶ。  煙草一本を吸い終え、ボトルを冷蔵庫に戻すと、室内数ヶ所に仕掛けてある装置のひとつひとつを点検しながらスイッチを入れた。  この自分が一定時間内に帰宅せず解除しなければ自動的に発火する装置である。このアパートの部屋にはスプリンクラーなどの消火システムはない。室内にもわざと燃えやすい物を配置してあった。  それでも大火災にはならぬよう入居時に部屋の造りを入念にチェックし、可燃物の量なども計算してある。何も全てを丸焼きにしたい訳ではない。この自分という人間がここにいた痕跡さえ消せたらそれで構わないのだ。  ジャケットを羽織る前に左脇に吊った銃を抜く。マガジンキャッチを押してマガジンを手に落とし、スライドを僅かに引き天井の蛍光灯で透かし見た。薬室(チャンバ)にまで弾薬が装填されているのを確かめる。  シングルカラム七発の四十五ACP弾がフルロードされたマガジンを銃に叩き込んだ。計八発。左脇のホルスタに戻す。  あいつと別れて、いや、行動を別にしてからは、この古いコルト・ガバメントがずっと自分の相棒(バディ)だった。日陰者の俺を絶対に裏切らないバディだ。だからといってあいつを羨んだことはないし、あいつは陽、俺は陰と決めたことにも何の悔いもない。  ジャケットを羽織ると少し考えてトレンチコートを腕に掛ける。  アパートの玄関を出てキィロックし、空を仰ぐとまだ町は薄暮だった。  この辺りは路地の細い集合住宅地で表通りに出るまで十分ほど歩かなくてはならない。表通りで上手くタクシーを拾うと乗り込んで行き先を告げるとシートに凭れた。七、八分でタクシーはバイパスに乗ったが帰宅ラッシュで進み具合は良くなかった。  窓外の空を男は再び眺めた。藍色から薄い水色を経てピンク色の残照が住宅街の屋根を照らしている。やがて高速道に乗って三十分、更に一般道の混み合う中を三十分ほどでドライバーに声を掛け、大通りの路肩に停めさせて料金を支払い降りた。  すっかり日も暮れた中、夜の冷気を吸いながらゆったり歩き始める。この辺りはオフィスビルばかりが建ち並ぶ界隈だが、ビルの一階には洩れなく店舗が入居していてかなりの賑やかさだ。ショーウィンドウのライトアップも眩いそれらを眺めながら、ウィンドウショッピングにいそしむ女性たちを縫って先を目指す。  暫く歩いて大通り沿いの歩道から逸れ、細い脇道に入り込んだ。一本裏通りはクラブやスナックなどが密集する夜の街である。だがその盛り場の道も通過して更に奥まった小径に足を踏み入れた。猫科の獣のようにしなやかな足取りで人の気配も薄い小径を往く。  やがて一軒の薬屋の前で歩を止めた。薬屋は一見して開いているのか閉まっているのか分からない。シャッターが三分の二ほども下げられているからだ。だが残り三分の一からは店内の黄色っぽい明かりが洩れ出している。中からはTV音声が聞こえていた。  しかし薬屋の店内までは入らず、シャッターの脇にあるポストを誰に断ることなく開ける。名刺くらいの紙片を取り出して閉め、薬屋をあとにして歩き出しながら紙片を見た。 【二一三〇・スコットシネマシティ・Fルーム】 「二十一時半か……」  声にせず口の中で呟くことで時間やメアドに電話番号などの記号的なものを忘れぬよう覚えるのはクセだった。最近のレイトショウなど何をやっているのかと思う。  取り敢えず薬屋から離れてクラブやスナックなどが軒を連ねる盛り場の通りまで戻り、派手な電子看板の傍に背の高い灰皿を見つけて立ち止まった。  煙草を出して咥えライターで火を点けると、その火をさりげなく紙片に移す。灰皿の上で紙片を燃やして灰を指先で崩した。煙草を半分ほどで消し、再び歩いて大通りに出る。タクシーを捕まえ乗り込んだ。一時間以上乗ったタクシーを停めさせる。  カネを払ってタクシーを降りたのはスコットシネマシティよりかなり手前だった。またゆっくりと人波の中を往く。スコットシネマの手前には大型ショッピングモールがあるため、この周辺はいつも結構な人出なのだ。  そうして時間調整し、十分前にスコットシネマシティの前に立つ。  外資系の映画館はいわゆるシネコンというヤツで、中はさほどキャパシティの大きくない幾つもの箱に分かれていた。チケットを買って密やかにFルームに入る。  係員に見咎められず上手く途中から入り込んだFルームでは、古そうなアジア系のアクション映画を上映していた。何やら主人公が二丁拳銃をぶちかましているという騒々しいものだ。暗い中を見渡すと客は薄く、両手の指で数えられるほどである。  これでは係員の気合いが入らなくても仕方ない。  最後部から二列目の席に腰掛けると、すぐにビジネス鞄を提げたスーツの男が隣に座った。スーツの男がビジネス鞄を黙って寄越す。渡されたビジネス鞄を膝に載せ、ジッパーを静かに引いて中を検めた。入っていたのはカラープリント画像が数葉と、USBフラッシュメモリが一個だった。画像を暫し眺めて鞄に戻しジッパーを閉めて鞄を返す。  手にしたのはUSBメモリだけで、ダークスーツのポケットにしまった。  そこで初めて鞄を寄越したスーツ男が口を開いた。 「ターゲットは吉田(よしだ)正芳(まさよし)、防衛省外局の防衛装備庁の長官官房審議官です。外遊のたびに放蕩を重ね、装備費を使い込んだのみならずD国のハニートラップに引っ掛かりました。この事実が明るみに出るのは衆院選の本格的な人選が始まる頃だとみられます。それまでに何とかしなければ防衛大臣政務官である、あの方にも影響が――」  滔々と喋るスーツ男の前で手を振って長広舌を遮り、自分のポケットを示す。 「全てこれに入っているんだろう?」 「あ、ええ、勿論です」 「ならいい。俺は内情まで知る必要もない。あいつが判断した、それだけでいい」 「そうですか、相変わらずですね」 「俺は陰だ。陽たるあいつが変わらなければ、俺も変わることはない」 「なるほど。では、このあとはいつも通りに」 「ああ、いつも通りに」  他の少数の客の目を惹かぬよう囁き声でのごく短い会合を終えると、スーツ男は愛想笑いもせず鞄を提げて立ち上がり、きびきびした足取りでFルームを出て行った。  活動資金は既に振り込まれている筈だ。あとは適当なネットカフェにでも入ってUSBメモリの中身を見る。迅速に計画を練り、仕事を終わらせなければならない。衆院選の人選がいつから始まるのかすら知らないが、調べた上で早急にだ。  あいつから汚い仕事を押しつけられたとは思わない。恩着せがましい思いなど欠片も抱いてはいなかった。むしろメールを受けた時にも感じた、逸るような気持ちが全身の細胞を満たしている。単純に言えば、あいつのために仕事ができる嬉しさか。  しかしたわめられたバネの如く逸る心を意識して押さえつけた。自分をコントロールすることも仕事のうちだ。これがノーミスで仕事をこなしてきた鍵ともいえる。  ともかく今、この瞬間に真山幹夫という人物はこの世から消えた。真山が明日、会社に出勤することはない。元より雇われて日の浅い派遣社員である。  会社からは何度か問い合わせがきて終わりだろう。更に住居が火災を起こしたと知れば、面倒を嫌いそのままクビである。これまで何度も繰り返してきたのだ、経営者の思考パターンくらい分かった。  周到に練り上げた人物像とはいえ、消える時は呆気ないものだ。数字で個人が特定できる世の中であっても、抜け道は幾らでもある。  平穏な生活を送れないのは性分だ。だからといって投げやりになっているのではない。あいつの陰になると決めて、初めて生き甲斐を得た気がしたのも事実だった。  古い映画の中では主人公が銃を撃ちまくっている。  マガジンチェンジもせず無尽蔵に撃っているので薄く苦笑いを洩らした。
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