01-いらっしゃいませ

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01-いらっしゃいませ

 とある繁華街の古びたビルの一室に、創業約四半世紀の探偵事務所がある。十坪ほどの室内は、半分あたりでパーティション代わりの大きな鉢に植えられた背の高い植物や、天井から吊り下げられた小ぶりの鉢植えがいくつも並んでいる。  絶妙に視界を遮られた奥のスペースは、天板のみ木材のシンプルな黒のスチール机が三台、向かい合わせで島を作っていた。対して手前、入口側は、来客用の角張った黒革のソファとテーブルが鎮座している。その上、床板と壁に木材を使用しているため、訪れる依頼者はカフェやデザイン会社のような印象を受け、皆一様に「間違えた」と思うそうだ。  そんな探偵事務所へ、突然ひとりの青年が訪れる。歳の頃は二十代半ば。手足がすらりと長く、女性受けしそうな甘い容貌に、学生に間違われそうな瑞々しさが目を引く、古ビルの探偵事務所にはそぐわない場違い感を醸し出していた。しかしそんな青年は、周囲に気を配る余裕もなく、開口一番「助けてください」と言うなり涙した。  訪れる客の中では珍しい訪問形式であり、異質なほど彼だけ浮いていた。  事務所の奥の、パーティションの向こう側にいた所員二人は、そんな奇襲のような来客にフリーズしていた。一人は三十歳前後のくたびれたスーツに無精髭を生やした男。もう一人は五十歳前後の小綺麗な女。その二人が揃ってスチール机で驚きに目を丸くしている。  内心では、男は張り込み明けで二日ほど車中泊をしたため、先に簡易シャワー室で汗を流すかべきか仮眠を取るべきかで思案の最中で、若干億劫に感じていた。女の方は、入って来るなり涙を流す青年の整った容姿に、芸能人かしら、などと好奇心とときめきで目を奪われていた。  だがここは、探偵事務所である。二人ははっと我に返り、慌てて青年を来客用のソファへ誘導する。その際、近くにあったティッシュを一箱手渡した。  女は奥へ向かうと、かちゃかちゃと食器の触れ合う音をさせ、来客用のお茶を用意し始めた。その間、無精髭の男性が対応する。心持ちくたびれ加減を軽減するべく、背筋を伸ばし、テーブルに自身の名刺滑らせながら、 「所長の田上(たがみ)です。落ち着いたらで構わないので、お話を聞かせてください」  と簡潔に自己紹介をした。  青年は田上の言葉に頷き、二、三度呼吸を整え落ち着かせると、「じつは……」と語り出した。  青年の話によると、彼には半年前から付き合っている年上の恋人がいて、その恋人は週の半分ほど青年宅に泊まると言う。それならば、と同居を提案したところ、「今まで黙っていたが結婚している。高校生の息子もいる。君が許してくれるなら、息子が高校を卒業したら離婚して一緒に暮らしたい」と告げられたそうだ。  ただただ驚いた青年は、その時は「考えさせてほしい」と言ってしばらく連絡を断った。冷静になってこれまでのこと、これからのことを考えているうちに「とんでもないことをしていた」と恐ろしくなり後悔をした。  いわゆる不倫だ。恋人と思っていた相手には法律で認められた配偶者が居て、しかも子供がいる。知らなかったとはいえ、このまま関係を続ければ他人様の家庭を滅茶苦茶にしてしまうのだ。  青年は「勿論そんなことは望んでいないし、誰かを苦しめてまで付き合いたい、自分のものにしたいわけではない」のだと、懺悔するように手を組み合わせ心中を吐き出した。  青年はとても反省し、そして苦しかったが別れる決意をし、恋人に連絡をした。  話し合いをしようと待ち合わせ場所へ行くと、そこへ何故か恋人の息子と名乗る男が現れた。彼は青年を一瞥すると「あなたが浮気相手ですか。あなたのせいで家がめちゃくちゃなんですけど」と、息子に無表情で詰られた。青年は頭を下げて謝罪した。謝罪する以外出来ることがなかった。「知らなかったとは言え、苦しめてごめんなさい。あの人には今後一切関わりません。信用できないかもしれませんが信じてください」と、青年は頭を下げたまま必死に言い募り、息子の言葉を待った。頭上から溜め息が聞こえビクビクしていると、「分かりました。でしたら誓約書書いてください」と、息子は顎をしゃくり、ついて来いとばかりに歩き出した。息子は迷うことなく有名シティホテルに入り、フロントで鍵を受け取りまた青年を促した。  恋人は「社長」をしていると言っていた。だから息子に、自由に使えるカードを渡しているのだろうな、と青年はその時はそう解釈した。しかし、はたと気付いた。カード云々はともかく、何故客室を取る必要があるのだろうかと。青年は勇気を出して息子に問うた。「ロビーで書いたのではダメですか? お部屋を取るなんて勿体無いと思います」と。しかし息子は、これ見よがしな溜め息を吐き答える。「誰が見てるとも分からないところで誓約書を書いて、それを見られて困るのは我が家だって同じですから」と、それくらい察しろとばかりに、息子は迷惑そうな顔をした。  その説明に青年はなるほど、と頷き息子の後に続いて部屋に入った。そして後悔した。部屋に入った途端、無表情で冷静だった息子が、青年を突き飛ばし馬乗りになってきたのだ。咄嗟に殴られると思い、青年は両腕で頭をガードしたが、息子のとった行動は全く意図せぬものだった。  季節は夏。上半身Tシャツ一枚の青年は無防備だった。息子は裾から手を侵入させ、青年の身体を弄った。驚いた青年は一瞬フリーズしたものの、無我夢中で手足をばたつかせ、運良く息子の息子にクリーンヒットし、逃げ仰せたと言う。  終始向かいの席で黙って青年の話を聞いていた田上は、神妙な面持ちを崩さず「いくら恋人の息子とは言え初対面の男とホテルの部屋に入るか? アホか? アホなのか?」と大概失礼なことを思っていた。  危機管理能力がないのか、言葉通りにしか想像出来ない世間知らずか。田上はそんな内心はおくびにも出さず「酷い目にあいましたね」と、青年を労る言葉をかける。探偵と言えど客商売なので、如何にクライアント獲得に繋げられるかが重要だ。 「で、息子さんがあなたにした行為ですが、未遂とはいえ立派な犯罪です。異性間であろうと同性間であろうと、同意の無い性行為は犯罪です」  と、田上は神妙な顔をして、ゆっくり諭すように青年に述べる。 「お話を聞く限り、不倫の問題と暴行未遂は別の案件になるかと。暴行未遂の件は一度警察に行って相談する方がいいでしょう」  田上がそう言うと、青年はぶんぶんと大きく首を振った。 「そんなことはできません! 僕の証言だけで証拠もないですし、そもそも彼は未成年です! ……それに僕も、下手に事を荒立てたくないんです」  青年は両手で顔を覆い俯いた。田上は飲み物の準備をしていた女に目配せをした。彼女は忍びの如く二人にお茶を配り、青年に目線を合わせるように屈んだ。 「お兄さん、お名前をまだ伺っていませんでしたね。私は、この事務所で事務と補佐をしている、松田花です」  青年はその声に反応してそろそろと顔を上げた。 「渡貫…渡貫(わたぬき)日向(ひなた)です」  松田はにっこり微笑んだ。 「日向さん? 素敵な名前ですね。笑顔の似合う名前ですよ」  渡貫は母親くらいの年齢の事務員松田から微笑まれ、つられて小さく微笑む。 「うちの田上はこう見えて、ご依頼者様にはとっても親身になって優しいから、思ってること、困ってること、些細なことでも話されると良いですよ」  優しく微笑む松田の言葉に、渡貫は勇気づけられる。意を決して田上に向き直る。 「田上さん、どうかお力をお貸しください」  そう言うなり立ち上がり、お願いします、と渡貫は頭を下げた。田上もすぐに立ち上がって頭を上げさせる。 「渡貫さん、では、改めてお伺いします。お話を〝詳しく〟お聞かせください。…っとその前に、まずはマツさんの淹れたお茶でも飲みませんか。美味しいですよ」  田上ははよく冷えた緑茶のグラスを持ち上げ飲み干した。それを見て、渡貫も松田に礼を述べ冷茶をいただく。 「本当だ。美味しいですね」  ほう、と息を吐き、渡貫は言われた通り〝詳しく〟話し始めた。
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