Mrs. いらっち

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「 そんなに慌てたら、せっかくのお茶がもったいないで」  僕は吹き出しそうになりなりながら、青磁の急須に伸びた彼女の手をやんわりと包み込んだ。お茶を入れてくれた仲居さんも笑いをこらえている。 「なんで? もうええんちゃう? 早く飲みたいわ」 「あかん。美味しいお茶を飲むんやから、ちゃんと葉が開くまで一分待たんと」 「うーん、わかった」  なんでもさっさとしないと気が済まない彼女は、眉を少し下げてお預けを食らったポメラニアンみたいな顔で待っている。   二人で行く初めての旅行をこの温泉に決めたのは、お湯の魅力もさることながら、仕事に追われた毎日を忘れて、とにかく彼女とのんびり過ごしたかったからだ。   僕たちは夕食までゆっくりお湯につかることに決めて大浴場に向かった。僕は、内風呂、水風呂、露天風呂を何回も往復して、体の芯までじっくり温まり、心ゆくまでお湯を堪能したかった。彼女が湯冷めして、風邪でもひいたら大変だから、入浴前にちゃんと相談して上がる時間を決めておいた。  時間ぴったりに男湯の引き戸を開けて外に出ると、長椅子に腰掛けて、うまそうにソフトクリームをほおばっている彼女の姿が目に飛び込んできた。 「遅―い! これ二本目」  頬をピンク色に上気させ、髪を無造作にアップにした浴衣姿の彼女にドキッとした僕は、言いたい言葉を飲み込んで、ただ苦笑するしかなかった。  二年の交際を経て、僕たちは結婚した。結婚してからも、様々な場面で彼女のせっかちな性格を知ることとなった。  例えば、彼女はとにかく食べるのが早かった。付きあっているときから気づいてはいたけれど、僕がまだ食べているのに、さっと立ち上がってシンクに食器を戻し始める。よく冷えたビールを飲みながらじっくり話を聞いてほしい僕は、「それで部長がな……」と会社であったことを彼女の背中に向かって話し続けた。 「あ、ごめんごめん。つい片づけたくなっちゃって」と、彼女が照れ笑いをしながらテーブルに戻ってくるのは日常茶飯事だった。そんな彼女を、僕は愛情をこめて『Mrs.いらっち』と呼んだ。  こんなこともあった。僕たちの共通の趣味は読書だ。二人とも、特にミステリーや推理小説には目がない。好きな推理作家の新刊が出ると、言われなくても僕が買ってきた。  休日の午後、本を片手によっこいしょとソファに体を預けたとたん、「なあ、どこまで読んだん?」と背後から声がかかった。彼女はとなりにぴったりとくっついて座ると、不敵な笑みを浮かべて僕の目をじっと見つめた。あー、また始まった。『Mrs.いらっち』は、上下巻とも既に読み終わっているに違いない。犯人を言いたくて言いたくて仕方がないのだ。僕は空いた時間を見つけて、少しずつ読み進めるタイプだからこれには参った。「お願いやから結末は内緒にしといてよ」と、何度真剣に顔の前で手を合わせたことか。  こんなに正反対な性格なのに、僕は彼女のことが大好きだ。どこに行くにも何をするにも、僕の手を引っ張って「早く早く」と子供のようにはしゃぐ彼女の姿が、昨日のことのように目に浮かぶ。 「なにもそんなに慌てて天国に行かんでもよかったのに……」  優しい伽羅の香りに包まれた写真の彼女は、今日も僕に向かって変わらず微笑んでいる。                                                                        
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