ダーリンは魔王様

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 荒れ果てた大地の上に、まるで小さな沼の様に滞留する赤黒い液体。  そこから左右に生えている黒い羽根。  蝙蝠の様な形状をした見事な大きさのその羽根は、だがしかし、ひどく歪な形を描いて天へ向かって伸びていた。  両翼とも、ちょうど真ん中辺りで綺麗にパックリと折れ曲がり、そこから羽先にかけて、まるで蛇腹の様にくねくねと何度も妙な方向へと折れ曲がっている。  そのあまりに不自然な形状からは、これがこの羽根本来の形ではなく、何らかの強い圧力が加わって成された惨状である事を物語っていた。  その哀れな羽根と赤黒い液体との間には、こんもりと盛られた小さな黒い山の様な物が見える。  消炭の様なそれが何なのか一目見ただけではよく分からないが、あまり良くない物である事は誰が見ても伺いしれた。  遥か上空から見下ろす人間界の景色は、まるで良く出来たパノラマだ。  壮観で美しいが、まるで現実味がない。  普段の様に気まぐれに人間界に降りて、そっと彼らの生活に紛れているのとはまるで違う。人間たちの息遣いも生活臭も、がちゃがちゃとした賑やかな街の賑わいも肌で感じる事が出来ない。  小さな溜め息を吐いて、青年は自分が腰掛けている赤く塗られた鉄骨をそっと撫でた。  鉄は当然のように冷たく、温かみなど全く感じられない。  自分の置かれている現状と今の心情と、これからへの不安と寂しさと…… 色々なものがまぜこぜになった己の心情とまるで無機質な鉄の冷たさがリンクしているようで、もう一度大きな溜め息をついた。  青年の名前は、カインという。  長らくこの国で一番高い建造物だったらしい赤と白に塗られた鉄の塔に腰掛けて、足を所在無くぷらぷらと揺らしている。  少し前に、この倍近い高さを誇る塔が新たに完成したらしく一位の座は譲り渡したらしいのだが、カインは人間界のこの塔が今でも変わらず好きだった。  だが、考えてみれば、すっくと天に向かって立っている物言わぬ塔も、首位の座を降りてどことなく寂しそうにも見える。  自分が腰掛ける塔に勝手に親近感を覚えて、カインはもう一度冷たい鉄を優しく撫でた。  突如発生した強い風に煽られて、小麦色の髪がはらはらと揺れる。  固めだが手触りの良いさらさらした髪がひとしきり風に弄ばれた後、やがて静かに元の位置へと落ち着いた。  金糸のような髪の中から慎ましげに出ている黒い小さなツノと、彼が纏う漆黒のスーツの裾から出ている黒くて長いしっぽ。  顔だけ見ると童顔な青年にしか見えないが、その二つの異質な存在が、彼が普通の人間では無い、人外の者である事を何より如実に物語っていた。 「はあ」  薄い唇から、八重歯と共に深い溜息が漏れる。  綺麗な弧を描く少し太めの眉を八の字に顰めて、その下に鎮座する大きな瞳を潤ませる。  深い緑色をした美しいエメラルドグリーン。  誰も立ち入ることが許されない神秘の森を思わせるその大きな瞳には、薄い水分の膜が張られていた。 「これから、どうすっかなあ……」  脳裏を過るのは、氷の様に凍てついた青い瞳。  その凍りついた二つの青が、嫌悪と憎悪の色を浮かべてこちらを見つめている。  必要ない。悪影響。相応しくない。異端の堕天使。  告げられる追放宣告。  そして、カインは何かが砕け散る音を聞いた。  ううっと思わず漏れた掠れ声に慌ててブンブンと頭を振り、自分を鼓舞する様に勢いよく立ち上がった。  赤い鉄骨の上に仁王立ちし、遥かな下界を見やる。 「まあ、これ以上考えてても仕方ねえし。とりあえず、当面暮らす場所でも探しに行くとするか」  ばさあっ。  金色の髪の青年の背後で、黒い羽根が音を立てて羽ばたきだす。  蝙蝠の羽根を大きくした様な見事な黒い羽根―――そう、片方だけは。  彼の黒服の背から伸びている左側の羽根は、澄んだ青空を背にバサバサと揺れている。  だが、もう片方の右側の羽根はといえば、羽音どころか羽ばたき一つしない。  何故ならば、彼の右側の羽根はちょうど真ん中辺りからポッキリと折れ曲がっており、折れた半分の羽先の方はピクリとも動いていないのであった。 「よし。取りあえず、人間界に降りてみるくわあああっっ」  電波塔から飛び立ったカインが、奇声を上げる。  黒い見事な羽根ではあったが、片方だけでは上手くバランスを取ることが出来ず、上空の強い風の影響もあってあらぬ方向へと流されていく。  死に物狂いで左側の羽根を羽ばたかせるがあまり効果は無く、バッサバッサと音を立てながら、カインが目指していたのとは見当違いな方向に流されつつ下へ下へと落ちていった。  バキバキバキ、グシャッ。  凄まじい音と共に、細い枝が折れ、土煙が立ち、木の葉が舞う。 「っう……クソッ、痛てぇ」  大きな大木の下にある藪の中から、小麦色の頭がよろよろと力なく這い出てきた。  金の髪にも黒い服にも、無数の細い枝と緑色の葉と、土と埃と、あと何だか良く分からない物が沢山付いてはいるが、どうやら無事のようである。  最初に大きな大木に落ちたのと、その後落ちた藪がクッション代わりになってくれたお蔭である。  あとは、片方だけとはいえ、羽根が落下のスピードを緩めてくれたお蔭だろう。  もし彼が人間や動物ならこうはいかない。確実に即死、今頃原型も留めてはいないだろう。 「さすがは悪魔、ってか」  ふっと自嘲気味に青年の唇が歪む。  白くて柔らかそうな丸い頬に、無数に出来た擦り傷が痛々しい。  だが当の本人はといえば、全く構うことなくごしごしと乱暴に服の裾で頬を拭っている。  体のあちこちが痛むが、どうやら致命的な怪我は無いようだ。  とりあえずここがどこだか把握する為にも、まずは立ち上がって少し上空まで浮いて地形を見たい。  そこまで思いついて、ふと自分の折れ曲がった黒い羽根が思考をかすめた。 「ちくしょう、ついてねえ」 「もお~。相変わらず坊ちゃんは、言葉遣いが粗暴なんだから」  口を「げ」の形に固定したまま、心底嫌そうな表情を浮かべてカインが頭上を見やる。  藪の中からボロボロになって這い出てきた自分とは正反対の優雅さをもって、金髪の男が白い翼をゆったりと羽ばたかせ、青空を背に浮かんでいた。  純白のスーツを自己流に着崩し、磨き上げられた革靴が宙に浮いている。  緩いカーブを描いた肩まである絹糸のような金の髪。すっと通った鼻筋に、何だか妙なフェロモンが駄々漏れまくりのぽってりとした厚めの唇と顎髭。  形の良い柳眉を描く眉の下にある、地中深いアメジストを思わせる紫色の瞳。その美しい紫を僅かに細めて、男が苦笑する。 「上空からこんな藪の中に命知らずのダイブ敢行するなんて、坊ちゃんたらまた飲んでる?」 「飲んでねえっ! それに坊ちゃん言うなって何回言わせんだ、クソ髭」 「こんなに美しいお兄さん捕まえて、クソ髭なんて言うの坊ちゃんくらいよ~。相変わらず口が悪いったら。これで元天使だなんて、お兄さん信じらんな~い」 「だ、ま、れ」  ぎりりと睨みつけるも、上空に浮かぶへらへらとした男は全く動じない。  見た目はかなりの童顔で、体つきも決して逞しいとは言えないが、カインとて悪魔である。それも、そこそこの力を持った上級の位に位置する悪魔だ。  普通の天使は、悪魔という存在を穢れたものとして避けたり、その残虐性を恐れていたりするものだ。  だが、この天使。サミュエルは、カインの事を全く恐れてなどいない。  彼とカインの付き合いは、実はかなり長い。  長くなるのでここでは割愛するが、それこそカインがまだ悪魔になる前、天使だった頃からの付き合いになるから、腐りに腐り切った腐れ縁と言えるだろう。  そういうわけで、このサミュエルという男、カインを見かける度に何かといらぬちょっかいを掛けてくる彼にとっては鬱陶しくて仕方ない男なのである。  ふぁっさふぁっさと音もたてずに、白い翼のいけすかない男がカインが座り込む藪の近くまで降りてくる。  ふいに、それまで締まりなくにやついていたサミュエルの顔が、一瞬真顔になった。 「……ああ、そういうこと」  サミュエルの紫色の瞳がじっとカインに注がれる。  いや、正確にはカインの肩の上――そう、ちょうど羽根のある辺りに。  サミュエルの強い視線と、何事か呟いてはひとり納得している様子に、何ともいえない居心地の悪さを感じ、カインが身じろぐ。 「てめえ、ジロジロ見てんじゃねえよ。どっか行け」 「坊ちゃん、それ痛くないの?」  サミュエルの白くて長い指が、すっとカインの黒い羽根を指す。  真ん中からぽっきりと折れた、無残な片翼。カインが、無言のままぷいと顔を背ける。 「折られたの? それ」 「……テメエには関係ねえ」 「当ててあげよっか?」 「うるさい。俺は今、機嫌が悪いんだ。早く去」 「魔王にやられたんでしょ?」  苦虫を潰した様に顰められていたカインの瞳が、これ以上ない程大きく見開かれる。大きく口を開けたまま、サミュエルを見る。 「お、おま。な、なん……」 「当たりでしょ? なるほどね~。お兄さん、やっと納得したわ」 「テメエはっ、さっきから、何意味の分かんねえ事ごちゃごちゃ言ってんだ」  いつの間にかカインの傍らに屈み込んでいたサミュエルが、そっとカインの折れた羽根に指先で触れる。  「うわ、痛そ」僅かに顔を顰めて、サミュエルがそうっと羽根を何度か撫でる。 「触んな」 「カイン、早く魔界に帰った方がいいよ。大変な事になってるから」 「……大変な事?」  カインの眉が、ぴくりと動く。  幾つもの疑問符を並べて、カインが視線だけサミュエルに向ける。 「帰れねえよ。もう魔界に俺の居場所はない」 「いや、それは多分大丈夫だから。早いとこ帰りなさいって」 「大丈夫じゃねえよ! 俺は、魔王に魔界を追放されたんだっ。のこのこ帰ったら、今度こそ八つ裂きにされる」 「大丈夫なんだって、魔界にお前を追放した魔王はもういないんだから」 「はあ? お前、何言って」 「天界でも、いま凄い騒ぎになってる。まだ詳しい情報は入ってきてないんだけどね、今分かっていることは、魔界の魔王は数刻前に死んだ……正確には倒された、かな?」 「死、ん……だ?」  「そう」サミュエルが頷く。  呆然と固まるカインに向けて、淡々と続ける。 「魔王は倒されて、魔王を倒した奴が、次の新たな魔界の王として立ったらしい」 「馬鹿な……ありえねえ……」  カインも良く知る魔界の魔王。  強大な力と残虐な心、現魔王は歴代の魔王の中でも間違いなく最強の部類に上げられる悪魔だ。  そして、その絶対的な力をもって、もう何百年も魔界を支配してきた独裁的な王。  あの魔王を倒せる者など、どの世界を探したっている筈がない。  カインが属する魔界では、最も強い者が王となる。至極単純で分かり易い世界だ。  魔王は最強の悪魔として魔界の頂点に君臨し、何百、何千年という時間を生きる。その長い時間の中で、見込みのある悪魔を見つければ目を掛け、次の魔王候補として育成したりもする。  現に今の魔王にも、そうして目を掛けていた力のある悪魔が何人かいた筈だ。  その中には、カインの元養い子である悪魔も入っていた。  まあ、当の本人はといえば、魔王というものに対して、興味もヤル気も全く無かったようではあるが。    カインの脳裏をあの凍り付いた青い瞳が過る。  どこまでも冷たい、青い瞳が射抜くようにこちらを見ている。  先の尖った黒くて長い爪がカインの顔の横に伸ばされる。  片方の羽根を力任せに掴まれて、カインが声にならない悲鳴を上げた。 「お前がいるとあやつの為にならない」 「次代の王になるべき者のすぐ側に、堕天使がいるなど虫唾が走る」 「お前を永久に追放する」 「命が欲しくば、その姿二度と我らの前に見せるな」  鷲掴みにされていた羽根に、ぐっと力が込められる。  ボキッ。  固いものが砕ける音を、カインは自分の耳のすぐ横で聞いた。 「いやあ。お兄さんもびっくりしたよ~。あの魔王が倒されたなんて話、天界でも半信半疑だったしねえ。しかも、魔王ボコボコにヤラレてたらしいし」 「……いや、不可能だ……。あいつより強い奴なんて、魔界にも天界にも、人間界にだって…… どこにも存在するわけがねえ」 「う~ん。そうなんだよね。お兄さんもそれが不思議でさあ。でも、それを見て、何だか納得しちゃった」 「それ?」  そう、それ。  サミュエルが微笑みながら、指を指す。  人差し指の先には、カインの折れた黒い羽根。  サミュエルの唇が、美しい弧を描く。 「死んだ魔王の体、原型留めてなかったらしいよ」  強い風が吹き、木々がざわめく。  カインとサミュエルが座り込む草むらも、風に煽られて草たちが波打っていた。 「これがまた驚きなんだけどね。相手との間にかなり圧倒的な力の差があったのか、そりゃもうボコボコにやられたみたいでね。魔王が居た場所には変な方向に折れ曲がった羽根みたいなものと、黒い消炭みたいなのしか残ってなかったらしい。ありゃあ、相当ブチ切れて――」  身振り手振りを交え、興奮気味に今日稲妻の様に魔界と天界を駆け抜けたセンセーショナル過ぎる事件について語っていた男の動きが、ぴたりと止まる。  ぎしり。  そんな擬音でも聞こえてきそうな不自然な硬直具合で、サミュエルの顔が強張った。 「誰がブチ切れたって?」  さあっと青ざめていくサミュエルの顔を不審気に見ていたカインの小麦色の髪が、チリリと微かな音を立てる。  途端に張り詰めていく空気を感知して、カインの肌も粟立っていく。  カインと向かい合って座るサミュエルの背後から、凄まじい冷気が漂ってくる。  この世のすべての物を人を存在を、一瞬で凍らせてしまうかのような圧倒的な冷気。  体の芯から底冷えするような空気を背後からひしひしと感じながらも、持ち前の愛想の良さを総動員して、サミュエルが引き攣った笑みを浮かべてギギギと後ろを振り返る。 「……よお、アレクサンダー。久しぶりだな」 「本当に久しぶりだね、サミュエル。 ……ところで、君の後ろに辛うじてちらちら見える貧相な黒い物体は、もしかして僕の同胞かい?」 「あ~……。そうだな。確かにこの貧弱な小麦ちゃんは、元お兄さんの同僚で、偶然知り合った悪魔の子供を助ける為に堕天した今はお前と同じ悪魔の坊ちゃんだな」  カインの美しいエメラルドグリーンの瞳が、零れんばかりに大きく見開かれる。  呆然とサミュエルの背後に視線を向けたまま、掠れた声を絞り出す。 「……アレク」  こんなところに居る筈の無い、もう二度と会うこともないと思っていた―― カインの良く見知った顔が全くの無表情でこちらを見下ろしている。  大きな黒い羽根を広げて、サミュエルの背後に浮いている長身の若い男。  風になびくさらさらとした黒髪に、下を向いて生えているカインとは異なる立派なツノ。  黒いシャツの上に黒いジャケットを羽織り、ジャケットの下からは黒くて長い尻尾が揺れている。  すべてが漆黒に包まれている中で、飛びぬけて異彩を放つ、今日の空よりも鮮やかで透き通った青い瞳。  その美しい二つの青が、カインに注がれたまま微動だにせず固まっている。 「ア、アレク。お前、……何でここに?」  呆然と呟くカインの顔を無言で凝視していたアレクサンダーの視線が一瞬、カインの顔から、無残に折れ曲がって変形した黒い羽根へと移る。  視線が動いたのはほんの一瞬だけだったので、呆けているカインは気づかない。  だが、サミュエルは見てしまった。  カインの羽根をその瞳に捉えた瞬間、アレクサンダーの瞳の奥が色を変えたのを。  それはサミュエルが今ままで見たことのない、どんな業火よりも熱く氷よりも冷たい、何とも形容しがたい温度を孕んだ瞳の深淵で揺れている小さな炎だった。  「こりゃあ、魔王も瞬殺だわ……」サミュエルがぼそりと呟く。  黒い羽根で宙に浮いていたアレクサンダーの両足が、静かに地上へと降り立つ。  サミュエルの方は一切見ずに、そのまますたすたとカインのすぐ傍までやって来ると、座り込んだまま下を向いて俯くカインの旋毛の辺りに話し掛ける。 「しばらく姿が見えないと思ったら、こんなところで君、何やってるんだい?」 「……」 「この忙しい時に、こんな藪の中で天使と逢引きでもしてたのかい?」 「……お前には関係ない」 「へえ?」  アレクサンダーの片眉が僅かに上がる。  しばらくの沈黙ののち、口角を上げて微笑するとそこから鋭い牙が覗いた。 「……まあ、話は後でいいや。とにかく魔界に帰るよ」 「俺はいい。お前一人で帰れ」 「これ以上、手間掛けさせないでくれよ」 「俺は帰れねえ」 「大丈夫だぞ。つべこべ言わずに早いとこ」  アレクサンダーの黒い手袋に包まれた右手が、カインの腕を掴んで立ち上がらせようとカインの右肩に触れる。  パンッ。  乾いた音がして、アレクサンダーの指先が、カインの手に払われた。 「俺は魔界を追放されたんだって! 魔界にはお前一人で帰れ!!」  大声で叫ぶカイン。  相変わらずの無表情の中、アレクサンダーの青い瞳だけが僅かに見開かれる。  立ち上がって、ふるふると肩を震わせているカイン。  これ以上何か言うと、嗚咽も一緒に漏れ出してしまいそうで、ぐっと唇を噛み締め耐えている。  あ、駄目だ。泣いちまう……。  じっと堪えていたが、どんどん溢れてくる感情に比例して、カインの瞳が潤んでいく。鼻の奥もツンと痛くなってきた。  駄目だ駄目だ、こいつの前で泣きたくない。  緑色の大きな瞳からぼろりと水滴が零れたその瞬間、カインの全身を激痛が走り抜けた。 「いっ、てええええっっ!!」  絶叫するカインの華奢な体が宙に浮く。  涙で滲んだ視界には、先ほどまで座っていた草むらと、不安定に揺れる自分の両手と両足が見えた。 「痛い、痛いって。アレクサンダー!」  喚くカインを無言で眺めながら、アレクサンダーが固く握りしめていた拳を僅かに緩めた。  悪魔の弱点である黒い尻尾。  その付け根をアレクサンダーに思いっきり捕まれて、カインの体はくの字型に浮いていた。  尻尾を支点にして自分の全体重が掛かってくるので、それはもうとんでもなく辛い。 「ア、アレク。しっぽ、放してくれっ!痛い」 「じゃあ、つべこべ言わずに俺と一緒に帰るかい?」 「それは、無理っ、だって言って」 「……」 「痛い痛い痛い」  絶叫するカインと、それを片眉を上げて見つめるアレクサンダー。  いつまでも続きそうな無間地獄に、おそるおそるサミュエルが口を挟む。 「あのさ……。坊ちゃん、帰った方がいいって」 「君、まだいたのかい?」 「黙れ髭! 見てないで助けろ。大体、帰れるわけ」 「いや大丈夫でしょ。だって」 「新しい魔王は、ここにいるんだから」  サミュエルの投げた言葉に、カインの思考は完全に停止する。  すべての機能を完全にフリーズさせたカインが、反射的に首だけをゆっくりと動かす。  見開かれた緑色の瞳と青い瞳がかち合う。  美しく澄んだどこまでも高い空を思わせるブルー・アイズ。  アレクサンダーは相変わらず何の感情も読み取れない表情のまま、じっとカインを見ていた。 「新しい……魔王? だれ、が」  うわ言の様に呟いたカインの腹の辺りに、長くて逞しい腕がまわされる。 「ぐえっ」  尻尾を放してくれたはいいが、そのまま荷物の様に軽々と小脇に抱えられ、じたばたとカインが身じろぐ。 「ちょっ、アレク。下ろせって」 「俺だよ、カイン」 「――は?」 「俺が魔界の新しい魔王。だから君が帰ってきても、何の問題もないんだ」  だって、君を魔界から追放した魔王は、もうどこにも居ないんだからね。    樽の様に抱えられたまま、信じられないものを見るような目でカインがアレクサンダーの顔を見上げる。 「じゃあ、またね。サミュエル。」 「おお、またな。それと――天界代表としてお願い申し上げます。これから、お手柔らかに頼みますよ。新しい魔王様」 「ははは。俺は魔界と天界の争いには興味無いからね。心配する事ないと思うよ」 「お、おい、アレク。魔王って、一体どういう」 「じゃあね」  一陣の風と共に、黒い大きな羽根を広げて遥か上空へとアレクサンダーが飛びさっていく。  小脇に抱えられたカインの「なんでお前が?」とか「どうして魔王と」などという喚き声が聞こえたが、あっという間に小さくなっていく二人の姿と共に、その声もすぐに聞こえなくなった。 「あ~あ。攫われちゃった……」  片手を目の上に翳して、上空を見上げていたサミュエルが呟いた。  アレクサンダーが新しい魔王になった事に対して、カインは心底驚いていたが、驚きすぎて未だ事態を良く読み込めてないようだったが――サミュエルはカインほど、驚いてはいなかった。  むしろ、あの無残に折れ曲がったカインの羽根を一目見て、なるほどなと妙に納得してしまったくらいだ。  アレクサンダーがまだ小さな子供の頃から育ててきた養い親であるカインの目には、対アレクサンダー用のフィルターが掛かっているので良く見えてはいないようだが、アレクサンダーはほんの小さな子供の時分から、本当に悪魔らしい悪魔だった。  内に秘めた力も、奥底に眠る残虐性も、飄々とした態度とヤル気の無さでカインを含めた周囲は気づいてないようだったが、サミュエルは何となく気付いていた。  昔馴染みの自分がカインを軽く小突いたり、その体に僅かに触れたりするだけで、いつも射殺されそうな視線を感じていたからだ。  あえてその視線と目を合わせる事はしなかったが、あれは間違いなく殺気に満ちたアレクサンダーからの視線だったのであろう。  彼のカインに対する執着心と独占欲は、どろどろに煮詰まった、どこまでも底の無い深く暗い、まさに悪魔染みたものなのだろう。 「前魔王様は、寝た子を起こしちゃったってワケね……」  アレクサンダーの奥底に秘められていた強大な力と残虐性。  そこに気付いて自分の後継者に、と考えたところまでは流石前魔王だが如何せんやり方が悪かった。  彼の選んだやり方は、前魔王にとって、最も選んではいけない最悪の方法だったのだ。  ――まあ、自業自得か。と、サミュエルが鼻歌でも歌うように呟く。  雲一つない上空では、新しい魔王と、その小脇に抱えられている筈の昔馴染みの姿がすっかり小さな点になっていた。 「カインもこれからきっと苦労するねえ。……ま、お兄さんも他人事じゃないんだけど」  顎に片手を当てて、サミュエルが俯いたまま暫し考え込む。  これからはあんまりカインにちょっかいを掛けると、今度こそ消炭にされるかもしれない。  お兄さんの美しい白い翼が、バキバキにひん曲がるかもしれない。  やり過ぎないように気を付けないとね。  サミュエルが、それでもどこか楽しそうに微笑む。  そうして、サミュエルが再び顔を上げる頃には、青空に浮かんでいた二つの黒い点はすっかり跡形もなくなっていた。
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