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 そのおじいさんが目の前の座席についたのはどの駅からだったか?  奇妙な薬剤の入った茶色のポリタンクを持つという目立つ格好なのに、なぜかわたしの記憶からは欠落していた。    その日、わたしは姫路駅から17時ちょうどの新快速電車に乗った。  神戸・大阪・京都を最速で結ぶ関西の基幹の交通機関だった。  途中の駅にはほとんど停まらない。なので早いのだ。最高速度こそ新幹線よりわずかに劣るものの、15分間隔で運行されているため極めて利便性の高い路線だった。    この日、北陸地方へ向かう仕事があり大阪駅で特急サンダーバードに乗り換えた。担当していた工事が長い期間に及んでいたため、もう何度もこの列車に乗って現地に赴いていた。もはや慣れた通勤列車も同然だった。  しかし、特急列車には特急列車独特の雰囲気がある。  一番の違いはお弁当とビールだ。  通勤電車ではどんなに空いていても、お弁当など食べたことがないし、ましてやビールを飲んでうたた寝することもない。これは特急列車と言う特殊な空間だけがなせるわざだろう。わたしは荷物を抱えて、指定席に着くと落ち着いて荷物を広げ始めた。駅の売店で買ったお弁当を出してその横にビールの缶を置き、そして雑誌を取り出した。  金沢駅まで3時間弱ほどの旅路だった。  次の新大阪駅で大きな荷物を抱えたおじいさんが乗ってきた。目つきが鋭く、一瞬わたしはその筋の人かと思ったほどだった。おじいさんは、わたしに対して丁寧に荷物を足下に置いてよいか断ってそれを置いた。網棚には上げたくない事情があるみたいだった。なにやら、液体の入った容器が入っているようで、揺れるとちゃぽん、ちゃぽんと音がした。そのたびにおじいさんは、にやりとこちらを向いて笑った。しばらくは、無口なまますごし、わたしは雑誌に集中していた。  やがて、車内販売が通りかかった。  おじいさんは販売員を呼び止めてお酒のワンパックを1つと、おつまみを買った。  わたしに「失礼」とだけ言ってパックを開けちびちびとお酒を飲み始めた。半分くらい飲むと老人の顔が赤くなり、気分がよくなったのだろうか、わたしに話しかけてきた。 「あんたは何をしてる人なんだい?」 「わたしですか? プラント・エンジニアです。これから北陸地方の工事現場に行って、ボイラーの調整運転をするんです」  おじいさんは不思議そうな顔をした。 「ああ、ボイラーね。調節弁の設定とかするのか?」 「ええ。よくご存じですね。現在ではほとんどのボイラープラントは運転を自動化しているのですよ。特に燃料に点火するときが一番難しいのです。何年かに一度くらい爆発しては死人が出ているでしょう。重油も石炭も簡単には点火出来ないんです」 「ほう?」  おじいさんはこの仕事に興味を持ったようだった。わたしもおじいさんにこの荷物のことと仕事について聞いた。 「外科の医者だ。無資格だがな」  おじいさんはそう答えた。わたしはますます興味を持った。無資格の外科医なんてまるで漫画の主人公の様だからだ。しかし、そんなことが可能なのだろうか。おじいさんの言い分では資格より腕前の世界なのだそうだった。 「軍隊にいた頃、衛生兵をしていたんだ」  と、そんなことを言った。  ――軍隊? いつの戦争のときだろう? わたしは太平洋戦争に従事していたと言う意味だと取ったが、もう、戦争が終わって78年にもなる。当時何歳だったのかは知らないが、何にせよ、言葉通りならおじいさんの年齢が若すぎるのではないかと思った。どう見ても60代後半か70代前半にしか見えなかった。 「ときどき機械工場で指をなくす人がいただろう?」 「ええ、今でもときどき事故がありますね」  研削盤で砥石が割れて指をとばしたり、ボール盤で掌ごと巻き込まれたりと言った事故は、現在では減って来てはいるものの、やはり、たまには起こっていた。  おじいさんの話では、そんなひとの指や腕を元に戻す仕事をしていると言った。  やはり、日常生活でも差し支えがあるし、その筋のひとと勘違いされても具合が悪い。そんなひとから需要があると言う。わたしは興味が湧くと共に、疑問にも思った。 「そんなことが可能なんですか?」  おじいさんは切断された指が残っていれば、荷物の中に入っているこの薬剤につけて、凍らないぎりぎりの温度で冷蔵しておけば将来、移植することが可能だと言った。保存液のようなものだそうだった。この薬剤について聞いたが、世界でも南アジアの一部でしか採れない薬草から抽出した液と複数のアミノ酸を反応・混合させたものだとしか教えてくれなかった。もちろん、厚生労働省の認可など受けていない。謎の代物だった。  だが、移植しても神経が痛んでいたりすると、せっかく付けてもうまく動かすことが出来ないという。うまく切るには、骨に傷を付けずに、神経も傷つけず、骨と骨の間の軟骨の中間を切るのが理想的と言った。だが、本職の解剖医でもなければそんなことは不可能で、ほとんどは何らかの障害が残ると言った。
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