第一話:恋の始まり

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第一話:恋の始まり

 Rain dropsの初期の曲に『恋以上愛未満』という曲がある。この曲はセカンドアルバムに収録されている曲で、テンションコードを使いまくりの複雑な曲を作っているRain dropsにしては珍しくギターのストロークがメインの単調なスリーコードの曲だ。この曲の作詞作曲はもちろんRain dropsを率いるボーカル&ギターの照山で、タイトル通りの甘く切ない曲調であり、その曲に乗せて照山は自分の心情をストレートに歌っている。照山は歌詞の中の恋以上愛未満といういささか気恥ずかしいフレーズに自分の奥深くに秘められた恋への憧れを込めていた。  この曲『恋以上愛未満』はファンの間で人気で当時のライブのセットリストには必ず入っていたが、ある時を境にこの曲はパッタリと演奏されなくなった。その理由は今となっては周知の事実だが、ここであらためてその理由を書くと、単純に照山が恋をしてしまったからである。彼にとってその恋は恋以上愛未満どころではなくて、恋異常愛異常のような状態になってしまったのだ。  照山がその恋の相手の美月玲奈と出会ったのは、彼女がMCを務める深夜テレビの音楽番組の収録だった。Rain dropsはライブの宣伝でその音楽番組に出演したのだが、照山はその美月に対して嫌悪感を抱き、彼女の質問にまともに答えず冷たくあしらった。普段女の子に優しい照山がなぜ美月をここまで嫌ったのか。それは彼女が俳優であったからである。彼は俳優というものにあからさまに偏見を抱いていた。作り物の世界でただ台本に書いてある借り物の言葉を喋っている中身のない連中。それが照山が俳優に持っていたイメージだった。そんな連中には自分の魂を絞り出すようなロックなんて絶対にわからない。照山は俳優たちに対する嫌悪感を、決してマスコミに口外しなかったものの、心の中でずっと抱いていた。  だが、テレビ番組の収録中、美月がRain dropsのインディーズ時代からのファンであり、しかもマイナーな曲まで知っていることを聞くと彼女の印象が変わった。そして美月玲奈が番組の終盤の方で目を潤ませながらRain dropsへの想いを熱く語り、そして最後に彼女から照山に会えてよかったと感謝の言葉を言われた時、照山の彼女に対する偏見はあっという間に崩壊してしまった。彼は知らずのうちに美月玲奈に恋をしてしまったのである。  この恋は照山にとって事実上初恋に等しいものだった。高校時代に付き合っていた女にギターと彼女の二者択一を迫られてギターと即答したあの日から彼はずっと女性とは無縁に生きてきた。現実の女性は絶対に自分を裏切る。ならば決して自分を裏切らぬロックへの道を生きよう。それが彼の選んだ道だった。  だが照山は女性に恋をしてしまった。これを少年から普通の凡庸な男への堕落と呼べば堕落であろう。しかし彼は今狂おしいほどの恋の熱病にかかっていた。彼は番組の収録後楽屋に戻るといきなりテーブルに置いてギターを手に取って指で弦を激しくかき鳴らながら絶叫した。  誰よりも  愛している  世界が崩壊しても  あなただけを  愛し続ける  ウオォー!  照山は衝動に突き動かされて思わずこんな歌を即興で歌った。そして突然持っていたギターを床に叩きつけて楽屋から飛び出してしまった。楽屋にいたメンバーとマネージャーは照山のこのいきなりの暴走に唖然として、我に返って照山を追いかけたが、照山はとりつかれたように駆け出し追いつけなかった。  楽屋を飛び出した照山は衝動のままに収録スタジオ内を全速力で駆け回った。その時彼は外の騒ぎを見ようとして楽屋のドアを開けた美月玲奈とばったり出くわしてしまったのだった。  照山は突然現れた美月にびっくりして立ち止まった。そして無言でしばらく彼女を見つめると、どけぇ!と叫んで苦痛に満ちた表情を浮かべながら再び駆け出してしまった。美月の隣にいた彼女のマネージャーはその照山の背中を見ながらこう呟いた。 「彼、シャブかなんかやってるんじゃないの?」  そのまま照山は走ってマンションの自宅に帰ったのだが、彼は玄関を開けるなり床に崩れ落ちるように倒れて泣き叫んだ。ああ!照山にとって美月の存在はあまりにも衝撃的だった。完全に我を見失い、ギターまで叩き割ってしまった。照山はさっきのテレビ局の楽屋で美月の前で大恥を晒した場面を思い浮かべて恥ずかしさに身悶えた。きっと彼女は僕を軽蔑するだろう。だけどなんで僕はあんなに取り乱したんだ。彼女は俳優じゃないか。好きでもない男とキスしても全然平気な薄っぺらな連中じゃないか。なのになんで自分たちのファンだって言われたぐらいでこんなに動揺してしまうんだ。ああ!彼はもう認めざるを得なかった。彼が美月に感じたこの感情は紛れもなく恋であった。  その後メンバーやマネージャーから電話やLINEで連絡があったが、照山は彼らに対して、あの時はどうかしていた。はじめてのテレビ出演で僕は頭がおかしくなってしまったんだと白々しい嘘をついて謝った。それから彼はスマホをジーンズのポケットに入れて部屋を眺めたが、部屋には溢れるほどのCDや本の山と、ギターや録音機材が所狭しと並べられているのに酷く殺風景に見えた。ここには何かが足りないように思えた。照山はせめて気を紛らわせようとCDの山からロネッツのCDを取り出した。ロネッツとは伝説のプロデューサーフィル・スペクターが手がけた黒人女性グループで、60年代初頭に最も人気を博していた女性グループの一つだった。ジョン・レノンやポール・マッカートニーが彼女たちのファンであった事はよく知られている。彼はCDをコンポに入れリモコンで曲を選んでかけた。曲は彼女たちの代表曲『BE MY BABY』だ。この女の子の恋する気持ちを歌った曲は今の照山の気持ちを幾分かは代弁していた。流れる曲を耳を傾けているとついさっきまで一緒にスタジオにいた美月玲奈の顔が思い浮かんできた。曲がAメロBメロと進んでいき、サビにきた時照山は思わず一緒にサビを歌った。「ビー・マーイ・ビィマイベイビー、ビー・マーイ・ビィマイベイビー」と美月玲奈の顔を浮かべて泣きながら歌った。
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