1ー⑴

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「ううむ、やはり七夕を過ぎると風が夏の匂いになるなあ」  末広町のあたりをぶらぶらと歩いていた飛田流介は、八幡坂の途中でふと「神社にでも行ってみるか」と日和坂の方に向きを変えた。日和坂を上ると海の安全を祈願する『船魂神社』がある。景色もよく夏の散歩にはうってつけの場所だ。 「このところ奇譚の材料にめぐりあえないからなあ」  流介は地方新聞の記者であり、奇譚小話の記事を書くのが目下の仕事なのである。  流介が暮らしている港町、匣館は古くから貿易の要所として栄えている街で、その歴史は鎌倉時代にまでさかのぼる。流介が働いている匣館新聞社が読物に力を入れているのも、新しい鳴事の気風を取り入れつつ読者を増やそうという考えからだった。  流介が日の当たる坂道をつらつらと上っていると、ふいに背後から「おや、飛田君ではないですか」と聞き覚えのある声が飛んできた。 「住職……」  振り返った流介の前に立っていたのは顔なじみの住職、実行寺の日笠だった。 「お坊さんが神社にお参りですか?」  流介が尋ねると、日笠は「おかしいかな?七夕を過ぎると海難事故も多くなる。神様のご機嫌を取るのは我々では無理。街の安康を願うのは神社も寺も一緒だよ」と答えた。  日笠は笑いながら流介の肩を叩くと、「君も何か神頼みしたいことがあるのだろう?一緒に願掛けをしようじゃないか」 と言った。  坂を上り切ると小さな鳥居と石段が見え、流介と日笠は息を整えるため足を止めた。 「ところで飛田君、相変わらず奇妙な話を探す仕事をしているのかね?」  日笠の唐突な問いに、流介は「はい、材料が少なく難儀していますが」と本音を漏らした。 「では先週、この石段のあたりでちょっとした事件があったことはご存じかな?」 「えっ、それは知りませんでした。……何があったんです?」 「人が死んでいたんだよ。一応事故ということで片がついたらしい。ただ死んだ人物にちょっとした噂があったことから、事故の後も尾ひれのついた話が広まっているそうだ」 「噂と言うと?」 「まあまあ、今から息を荒くしていては静かな気持ちでお参りできないだろう。どうかね、参拝の後はどこかに腰を据えて、甘いものでも食べながら取材としゃれこんでは」 「はあ……」  流介は二回り以上も上の住職が軽やかな足取りで石段を登ってゆくのを呆然と眺めつつ、これは得難い好機かもしれないなと後を追った。
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