人生でたった一度

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「それじゃあ、中学三年生の夏は……葉織くんと初めて、ちょっとだけ喧嘩しちゃった。そういう思い出の、唯一無二の夏だったって、ことだよね」 「そうかもね……」  この夏のような諍いは、これからのふたりの人生で二度と起こさない。ふたりは確信していたし、その後の生活では実際に、この日想像した通りになった。  緩い力で指を絡めて、ふたりは手を繋ぎ、夏の終わりの薄紅の空と海を眺めていて。いつしか、どちらともなく、肩を寄せ合ってお互いの温もりを感じていた。  触れ過ぎたら溶けてしまいそうな、雪のように白い、羽香奈の心。  葉織が触れ過ぎて怖いと思うのは、羽香奈の心だけではない。体もだった。  思春期なのだから。疑いの余地は一切ない、相思相愛の関係なのだから。  ごく普通の男女の恋人だったら当たり前に求め合う、体の繋がり。それに焦がれて、心も体も疼くことがあるのだ。葉織も羽香奈も、ふたり、共に。  こんな時、本当はもっと強く、彼女を抱きしめたいと思う。けれど、そうしてしまえば、常にギリギリのところで堪えている均衡を崩してしまいそうで……。  自分達は心だけの繋がりで、これから一生を共にすると誓ったのだから……こうして肌と肌の触れ合いで、温もりを感じる。これが、彼らの限界だった。  中学三年生の夏は、一生に一度限り、ふたりの長い仲違いの思い出。それからもふたりは末永く、死がふたりを分かつまで、江ノ島の小さな家で共に暮らした。  大人になっても、夏の終わりを感じさせる空をふたりで見上げる時はいつだって。あの、たった一度の「中学三年生の夏の終わり」に空を見上げながらふたりで抱いたほろ苦い諦念と、お互いの肌の温もりを思い出していた。それは彼らの心の靄をほんのわずか、泡立たせるのだ。波打ち際に寄せる、潮の泡のように。
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