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プロローグ
私、椎名綾はこの春、株式会社ミネルヴァソフトウェアの営業事務として就職した。
そして、今日はその会社の入社式だ。
「やっぱり、春は気持ちいなぁ」
私は会社に向かう桜並木のトンネルを抜けながら、大きく息を吸って呟いた。
桜は正に今が満開で、風で散っていく桜の花びらが朝陽にあたってきらきらと輝いていた。
すると、そこに少し強い春風が吹いてくる。
私の長い髪は風に煽られ、舞い上がった。
その髪を手で押さえ、目線を川沿いの方へ移すと、そこには一人の男性が日向ごっこでもしているように空を仰いでベンチに座り、少し長い髪を靡かせている。
私にはその男性がどこか切なく、しかし、舞い散る桜の花びらに彩られるように輝いているようにも見えた。
私がそんな彼を見つめていると、彼の方も私に気が付き、互いの視線が合わさった。
その瞬間、私と彼の間に穏やかな空間が流れていくように思えた。
それは正にスローモーションのようで、ゆっくりした時だった。
綺麗……
私が彼を見て最初に心に浮かんだ言葉だ。
柔らかい少し茶色がかった髪。
流れるような切れ長の大きな瞳に、それを引き立てるように緩やかなカーブをえがいた長いまつげが光に反射していた。
鼻筋が通っていて、柔らかそうな唇が微かに動く。
大人の男性に対してこんな風に綺麗だと思ったのは初めてだ。
見つめ合っているとお互いに気まずくなって、目線を外した。
私の頬も微かに火照る。
今日は入社式だと思って少し早く家を出て来て良かった。
そうでなければ、ここでこうして彼と出会うことは出来なかっただろう。
彼はベンチから立ち上り、軽く服に着いた汚れを叩いて落とした。
整った髪型。
薄茶色のベスト付きの高そうなスーツ。
しっかり磨かれたかかとの尖った革靴。
重そうなビジネスバック。
きっと彼はやり手のビジネスマンなのだろう。
それにこの時間のこの場所に来られたら、また彼に会えるのだろうかと思った。
彼はそのままその場を立ち去っていく。
私はただ茫然と立ち尽くして、去って行く彼を見送るように見つめていた。
あの後、私は桜道を抜けて道路沿いを歩き、目的のミネルヴァソフトウェアのオフィスビルの向かった。
そのオフィスビルは割と新しい高層ビルだった。
こんなお洒落なところで働けるなんて夢のようだ。
学生の頃から都心の会社で働くのが憧れだったので、正直今日は浮足立っている。
浮かれていたせいか私は、真横を歩いている人物に気づかず、ぶつかってしまった。
慣れないヒールに足を取られ、前かがみになって倒れそうになったが何とか転ばずにすんだ。
その代わり、鞄の中身が見事に道端に散乱してしまった。
私は慌てて拾いあげながら、ぶつかった相手に謝る。
振り向いて顔を合わせと、そこには新調したばかりのスーツを着た若い男の子が立っていた。
私と同じ新入社員だろうか?
まだ、スーツが馴染まず、服に着られているという感じがした。
黒髪に目の上で切りそろえられた前髪。
顔は幼く、女の子みたいに可愛らしい。
私なんかよりずっと顔も小さくて、笑ったその顔が魅力的だった。
「ごめんね。はい、これ」
よそ見をしていてぶつかったのは私なのに、彼は私と同じように謝ってきて、新しいスーツが汚れるのも気にせず膝をついて、鞄の中身を拾ってくれた。
私は恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。
「ありがとうございます」
急いで鞄の中身の物を鞄に詰め込んで、立ち上がった。
すると彼は私のスカートが汚れていることに気が付き、手でさっと払い落としてくれた。
なんて紳士なんだろうと感心した。
「こんなすごいビルで働けるんだって思って見上げてたから、前が見えてなかった」
彼はそう言って照れくさそうに笑う。
彼も私と同じなのだと思うと、不思議と自然に笑い返してしまった。
「私もです。こんな場所で働くのが夢だったので、嬉しくてつい」
「なら一緒だね。もしかして、ここの新入社員?」
彼は徐に聞いて来る。
私は恥ずかしながら小さく頷いた。
「はい。このビルに入っているミネルヴァソフトウェアに入社したんです」
「ミネルヴァソフトウェア? 偶然! 俺も一緒だ」
彼は嬉しそうにそう答えた。
まさかとは思っていたが本当に同じ会社なんて、ちょっとだけ運命を感じてしまった。
「今から入社式だよね。なら、一緒に行こう」
彼はそう言って、社内に入るIDカードを見せた。
私も2つ返事で彼について行く。
知り合いもいなかったし、本当のことを言えば少し心細かったが、こうして一人でも知り合いが出来て、本当に嬉しかった。
彼の頼もしい背中が私の向かう場所へ導くように進んでいく。
入社早々、私は運がいいのかもしれないと思った。
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