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僕は風丘さんを夜祭りに誘いたかったのだ。
近所の神社では8月終盤に例大祭があり、
夜まで屋台が並ぶ。
熱の余韻、賑わい、お囃子、帰路に鳴く鈴虫。
どれも夏の締めくくりであり、それを風丘さんと二人でと望むのはつまりもうそういうことだった。
だから僕は緊張した。
単刀直入になど無理で、
まずは会話をと当たり障りなく言った。
「そろそろ、夏が終わるね」と。
「木下君。わたし常々考えてたんだけど、
夏ってなんで『終わる』のかな?
春が終わるって言う? 冬は?
それに夏が『終わる』のは秋が『始まる』ことでもあるのに、『秋が始まる』って聞かなくない?
夏と他の季節は何が違うんだろう?」
ころんとした丸縁メガネ越しに、
風丘さんが力強く僕を見る。
その瞳は、これが冗談の類でないことを伝えている。もちろんそうだ。風丘さんは無闇に議論をふっかける人ではない。
ただ日頃から『常々考えていること』がいくつかあり、周囲の発言がその的に見事命中するとスイッチが入るだけなのだ。
「そうだなぁ。一番は暑さじゃない?
ここ数年は特にだけど、昔も夏の暑さはしんどかったと思う。だから、気合いや安堵を込めて『夏が始まる』『終わる』って言うんじゃないかな?」
僕は議論にのることにした。
スイッチが入った風丘さんに他の話題は届かない。
僕がここで「君と夜祭りに行きたい」と奇跡的に言えたとして、彼女の耳には街路樹で鳴くツクツクボウシほども響かないだろう。
主張は完全に思いつきだったけれど、
風丘さんの眼は輝いた。
「確かに。昔はエアコンもないし、
『始まる』とくれば『終わる』になるか……
あ、それなら冬はどう?
昔の冬は温暖化がなくてもっと寒かったはず。
でも、3月でよく聞くのは『春がくる』で、
『冬が終わる』じゃないよ?」
なるほど。
冬を引き合いに出すとはさすが風丘さんだ。
次の思いつきを組む僕の脇で、ウィン、と自動ドアが開いた。店内から出てきた親子連れは、手を引かれる男の子が小さな浴衣を着ている。
「じゃあ、逆に楽しいからかな。
夏は日が長いから、その分いろんなイベントを組める。そうしたものが全部終わる名残惜しさが、
夏を『終わる』って言わせるのかも」
ウィン。また自動ドアが開き、
今度は高校生らしき数人がスーパーへ入る。
知らない顔だ、別の学校だろうか。
風丘さんはぱっと声を弾ませた。
「木下君、それ良い!
楽しいことが終わった名残惜しさね。
じゃあ、何もなく過ぎた夏は終わらないのかな?
わたしとか今年は結構暇だったけど、
このままだとずっと夏が続くってこと?」
何があろうとなかろうと、紅葉が舞い北風の吹く時期を夏と呼ばないことは風丘さんもわかっている。
今の彼女は目の前の議題に一途なのだ。
そして僕も、
この流れが好機であることはわかっていた。
脇の自動ドアをまた浴衣姿が通る。
どちらの家にも近所となるこのスーパーで、
僕らは度々出会っては言葉を交わした。
僕は風丘さんのまっすぐな瞳へ口を開く。
「もちろん、何もなくても夏は終わるよ。
それにイベントなら、
他の季節だって盛りだくさんだ。
自分で言っておいて何だけど、そうなると夏が『終わる』理由としては弱いかもしれない」
「うーん、それもそうだね。
あっ、じゃあこれは?
木下君が言った通り夏は暑い。
それが秋になるにつれ涼しくなることに一抹の寂しさを感じた人が……」
辺りに鈴虫の声が満ちていた。
青く溶けた黄昏が刻々と暗くなる。
脇を通る人の手に祭りの土産がちらほら見える。
風丘さんは止まらない。
夜祭りが遠ざかるのを感じながら、
けれど僕に焦りはなかった。
ただ、勝てなかったなとだけ思った。
この輝く瞳に。弾む声に。どんなでたらめを言っても否定されない『議論』に。
そうして、それでいいと思った。
僕に彼女を好きだと思わせたすべてのものが、
今年は僕の夏を締めくくるのだ。
了
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