潔癖症

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潔癖症

 塔の外観を説明するなら、渾名(あだな)の通り燈籠型と言うのが一番(わか)(やす)い。基本は円錐形だけれど、上部には火袋めいた四角い膨らみがあり、更に最上部には宝珠の様な三角錐が乗っかっている。高さは三百五十メートルを誇り、間近に仰ぐと踏み潰される様な勢いに気圧される。元々下町だった()の辺りには他にビルもないので、航空障害灯が赤い光を明滅させる其の先端は、孤独に東京の夜天を()いていた。芝公園に建つ電波塔より少しだけ高い灰色の塔が完成してからもう三十年近く経つという。今(なお)批判が絶えず、我が国の恥部だと声高に訴える者も多いけれど、今のトコロこれが解体されるという話は聞かない。  吉原遊郭、又の名を「花魁燈籠」。あの塔の中に数多の遊女が暮らし、今夜も其の商売を営んでいる。  俺は吉原を眼前に臨めるバーで独り、酒を呑んでいた。  電子的な情報伝達網が世界中を覆う現代に、どうして遊郭なんて時代錯誤なものが、こうも立派に建っているか?一言で片付けるなら、妥協の産物、という他ないだろう。俺は携帯端末を操作すべく、視線を横に流す。と、端末のセンサーが反応し、視界に古い新聞記事が二つ、投射された。  姦通罪、復活!   不貞防止法案、参議院通過  婚姻後の不貞を取り締まる「不貞防止法」が、与党の賛成多数で可決、成立した。近年増加する不貞を原因とする離婚率を抑える為、夫妻関係にある者の不貞行為を刑事罰化する「不貞防止法」は、前年度より本会議にて討論が行われていたが、野党の反対を押し切り、終に実現する。施行は来月を予定している。野党からは「事実上、姦通罪の復活であり、明確な憲法違反に当たる」との指摘もあり、国会では今後も激しい論戦が予想される。  首相「唯一の打開策」   結婚率回復のために風営法を改定すると答弁  昨年制定された不貞防止法に起因する結婚率の低下と犯罪数の増加への対応が遅れている問題で、高橋首相は6日午前の参院決算委員会で「両課題について政府内で検討した結果、風営法の改定が唯一の打開策であるとの結論に至った」と述べた。野党の田中議員が「国民の不信感を払拭する為にも不貞防止法はただちに撤廃すべきでは」と質問したのに答えた。  不貞防止法を巡る一連の問題にはこれまでも野党から激しい反発を受けていたが、首相は具体的な答弁は避けていたが、対応を明言したのはこれが初となる。  現行の風営法(風俗営業等の規制及び業務の適正化に関する法律)の改正案には、政府が認可した施設内における行為を「不貞防止法」が定める不貞行為から除外するとした骨子を(もと)に策定され、事実上、昭和33年に施行された「売春禁止法」を一部(ゆる)める内容となっている。野党からは「遊郭を(よみがえ)らせる危険性を孕んだとんでもない法改正であり、人権保護の観点からも到底容認出来ない」と非難する声が上がっており、成立した場合、内閣不信任案の提出も視野に入れていると答えた。  これらの内容についてもう少し詳しく解説すると、不防法(不貞防止法の略称だ)が制定された翌年の出生率は、其れは酷いものだったらしい。皆々、「永遠の誓い」を守り切る自信はない、という事だ。一夜の過ちで即投獄とあれば、其れも致し方ない。其処で、政府は「飴と鞭」の飴を用意する積もりで、性の自由区、つまり遊郭の復活を承認したのである。彼処(あそこ)での行為は、特例として不貞にあたらない、という飴を……。  正直、どうかとは思う。が、風営法が改定された翌年の出生率は其れなりに回復したというのだから、人間は正直な生き物だな、とも思う。  しかし、無論、「政府公認の売春宿」は非難を避けられず、先程も触れたが、野党や国内外の人権団体から度々槍玉に挙げられている。いや、専門家だけでなく、実のところ、一般人の評判も宜しくはない。適当な通行人を捕まえて、遊郭について印象を訊けば、大概はこう応えるに違いない。 「(けが)らわしい」  どうしてか?俺はグラスを傾けつつ、考えてみた。グラスの中で氷の回る涼しい音が鳴る。  食欲、睡眠欲、性欲は、人間の三大欲求だが、此の内、性欲だけが、常に仲間外れにされている感がある。例えば食欲。あの塔が多くの料理屋を内包する食のテーマパークだったら、世間はこんなに拒絶反応を示しただろうか?まさか!週末には家族連れで賑わう、平和な観光地になっていた筈だ。(ある)いは睡眠欲。アレが巨大なホテルであり、快適な睡眠を約束する施設だったら?恋人達にとってはどうか知らないが、これも世間体は(すこぶ)る良い。  ならば何故、性欲だけが排斥されるのか?  其れは……俺はグラスを机に置き、琥珀色の酒を見詰めた……其れは、性欲だけが唯一、満たさずとも死なないからではないだろうか。  人間、喰わなければ死ぬ。同じく、眠らずにいても死ぬ。此の二つは生命維持に必須の活動であり、であればこそ推奨され、清浄な行為として自然と受け容れられているのである。  では、性欲はどうか?人は長い間性行為をしなければ、飢えて死ぬだろうか?憔悴し切って死ぬだろうか?そんな事は有り得ない、何を莫迦な事を、と、常識人が鼻で笑ってくれるだろう。いや寧ろ、常識人は野生を嫌うから、人類に残された数少ない本能の一つであり、唯一満たさなくても構わない性欲を、目の敵にし、一層忌み嫌っているのだろう。  しかし……俺は考え続けた。硝子張りの向こうで輝く東京の夜景、其の主人として(そび)える女達の国を拝みながら……果たして本当に性欲が原因で人は死なないだろうか?否。俺は即答しよう。性欲でも人は死ぬ。其の実例を、俺は探偵として、散々目の当たりにしてきた。あの塔の中で……。  そう言えば。俺は酒に口を付けながら、ある事実に思い至った。俺の職業にも不防法は関わっているじゃないか。何処迄(どこまで)も因果な悪法だな。つい笑ってしまう。  俺は現代の探偵職に就いている。不貞の仕事と言えば昔からこれ探偵の仕事と決まっていた。が、不防法が施行されると状況は一変した。不貞は犯罪、即ち刑事事件と定められ、調査には捜査権が不可欠となってしまったのだ。単なる不倫にも、解決には警察の手を煩わせる必要が生じる。メディアは此の結果を「政府に()る犯罪の水増し」だと揶揄(やゆ)した。急増する犯罪に警察はてんてこ舞い、多忙が過ぎ、強盗や殺人等の重大犯罪に割く人員すらままならない始末。治安の悪化は避けられず、与党の支持率は暴落、不利な議会解散が目前に迫っていた。  其処(そこ)で、政府は一計を案じた。餅は餅屋、探偵に捜査権を与え、これ迄通り不倫調査は探偵にやらせよう、と。これこそ安易な「捜査員の水増し」ではないかと俺は思うのだが、政治家の思惑はどうあれ、こうしてようやく不貞を巡る一連の騒動は収束し、世相もやっと落ち着いたのだとか。  そして、俺も其の探偵職の末席に名を連ねている。俺なんかは駄目探偵の見本みたいなもので、普段は所長の助手ばかりしているのだけれど、其れは兎も角、さて、俺の勤める探偵事務所に一人の奇妙な男が訪ねて来た事が、連鎖する数々の事件の発端だった。あの男、俺を色と欲の一大パノラマへと(いざな)う依頼を携えた忘八が……。
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