トイレで珈琲を。

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(そうだ、トイレに行こう)  朝のテレビ番組で、俺の今日のラッキー占いは ¯行きたい場所” だった。 「それでは、今日も良い一日を」  いつものようにアナウンサーがジェスチャー付きでタイトルコールを告げ、にこやかに番組を締め括る。  行きたい場所、そう言われたなら普通は綺麗な海とか山とか、一度は行ってみたい世界各国の遺産や観光名所とかを思い浮かべるものだろう。だけど俺が思い浮かべたのは家のトイレだった。それってどうなの。ちょっと情けないかも。だが俺にとってトイレというのはいつも避難所だったのだ。  学生時代、友達が少なかった俺は休み時間を持て余したらトイレに行ったし、社会人になってからは嫌な上司に飲みの席で絡まれてもトイレに逃げた。家では部屋に来てまで愚痴を言う母親から避難するのもトイレで、本や新聞を持ち込んで立て篭るのなんて日常茶飯事だった。  家を出て一人暮らししてる今、トイレの壁には気に入った絵が額縁に入れて飾ってあり、小さな棚には懐古車やミニチュアフィギュアが並んでいる。フィギュアの横にはいつも読む数冊の本と雑誌。 (ああ、落ち着く)  俺はさっそく立て篭った。 (そうだ。コーヒーを入れよう)  トイレで珈琲だなんて、いつもだったら頭がおかしい奴だと思うところだ。だけど、もう遠慮も常識も必要なくなったのだ。心のリミッターを外して自由にやればいい。  早速俺はトイレに珈琲メーカーを持ち込んだ。豆は北海道の珈琲店のお気に入り。粗めに挽き、水をセットする。少し待つとコポコポと音がし始めて、落ちてきた湯が粉をふんわりと膨らませてゆく。モコモコと膨らんだ焦げ茶色の物体から、酸味と香ばしさが絶妙にブレンドされた独特な匂いが立ちのぼり、狭い室内の空気をまるで別世界のような別物に変えた。  すうぅぅ、はあぁぁあ。  俺はその香りを思いきり吸い込んだ。 (至福だ……)  思わず満面の笑みが出た。  もっとパニックになると思っていた。  実際、事が判明した一週間前には世界中が恐れ慄き、恐慌に陥った。  人々は狂気に飲まれ、街の方々で諍いが起こった。火の手が上がった焼け跡は未だに燻って焦げくさく、事故があった現場には放置された車が乗り捨てられてどす黒いシミが広がっていた。あちこちから悲鳴や雄叫びが聞こえ、剣呑な雰囲気が漂っていた。  世界はまさしく阿鼻叫喚の地獄絵図だったのに、今日は一転、どこも恐ろしいほどに静まり返っている。  きっと皆も俺と同じように自分の場所を決めたのだ。  家族がいる人は家の中にいるだろう。親は愛しい子供の手を握り、子供は親に守られる安心感に包まれている筈だ。  ペットと共に過ごす人、アイドルやキャラへの愛を注ぎ続ける人、大自然を選んだ人、孤独を選んだ人。  ここにきて、やっと皆、自分のいちばん大切な物を思い出して大切な場所へ向かったのだ。  あと少しで眩い光が世界を真っ白に染める。だけどまだ珈琲一杯、物語のワンシーンくらいの時間はある。  俺は棚に立て掛けているお気に入りの本を開き、珈琲にゆっくりと口を付けた。鼻に抜ける香ばしい匂いをお供に、本の世界へと旅立つ。 ──ゆっくりと、世界はまばゆい光で覆われていった。
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