晩夏の海に

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「大丈夫」 ──ひとつ、嘘を吐いた。どうしようもなく寂しそうな顔をするから、目に涙を浮かべながら悲嘆に唇を震わせるから、つい。つい。後悔はしていない。ただこの場にひとり残されていく少女が気がかりで仕方なかった。 「──」 桜色の唇からこぼれたさざなみのような優しい声を、風が攫っていく。私は手を伸ばして艶やかな少女の黒髪を撫でた。長い睫毛は水滴をまとって、勢力を落とさぬ夕刻の日差しを受けきらめいている。本当ならば彼女の傍に変わらず寄り添いたかった。──けれども命の源たる海はそれを許さない。さざなみをまるごと飲み込んでなお余りある声で嘆くのだ。違う、違う。ゆく道はそちらではないと。このまま彼女と夢の旅路を歩むことは許さないと。 「大丈夫」 何が大丈夫なのだろうか。自分に対して叫び出したくなる思いを押し隠しつつ、私は彼女の不安そうに揺れる瞳に目を合わせた。大きなまなこからは今にも涙が零れ落ちそうだ。親指でそっと拭うと、少女は首を左右に振る。小さな雫が光を反射し宙に舞い散った。 服の裾を掴んだ小さな手が訴えている。行くな、と。 「大丈夫」 なおも首を振っている少女へ幼子に言い聞かせるように繰り返す。服を握り締めている手をやわく解いて私の手と繋ぐと、少女の表情が少しだけ和らいだ。 「──なら、なんで」 ──少女が口を開いた。相も変わらず瞳からは大粒の雫をこぼし濡れて艶めいた黒で私を見つめている。そうして私の頬へと手を伸ばし、まるで涙を拭うようにゆっくりと撫でさすった。晩夏の西陽に当てられてなお冷たかった頬に、優しい掌はとても温かい。 「……なんで、泣いてるの」 ……そこでようやく私は自分の頬が濡れていることに気付く。大きく目を見開いて肌を拭うと、絶え間なく溢れる雫がしとどに輪郭を濡らしていた。 私は少女から海へと視線を移しゆっくりと瞬きを繰り返す。これ以上彼女に心配を掛けるまいと、またたく間に心を切り替えてしまえと。 ああ、でも。でも。溢れ出す本音に抑えは利かない。 「……はは、駄目だなぁ」 「やっぱり私は、ここに居たい」 「離れたくない、一緒に居たい」 ──私は明日の朝この優しい妹を置いて、海を越え、とおくの地に住まうことになる。最後の思い出作りとして、二人で誰も居ない浜辺に来たのだ。 「ごめんね、置いて行くことになってごめんね」 妹の涙は止まらない、控えめな嗚咽も聞こえる。 「ごめんね」 ……私はそっと妹の頭を撫でた。もうこうして泣いている彼女の傍に寄り添うことは出来ないし、駆けつけることだって出来ない。眠れない夜に話を聞くことも出来やしない。私が出来るのは、とおくの地から妹の幸せを願うことだけだ。 船を下りてしまえば、私は消毒薬の香りが満ちた真っ白い部屋のなかで暮らすことになる。どれだけ、いつまでなんて分からない。ただ優しく無機質な時間の流れる中で外を眺めて過ごすことになるだろう。 妹にもう一度会える保証もない。 だから私は、最後の嘘を吐いた。最後に網膜に焼き付ける姿は笑顔であってほしかったから。 「きっとまた、会えるから」 ──ああ。 最後の最後を迎える時にはこの海に還りたい。そうしたら、優しいさざなみがまた迎えてくれるだろう。 ……秋の気配が、すぐそこまで陰を伸ばしてきていた。
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