経験

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経験

 食後のカフェオレアイスクリームを掬って口に放り込みながら、僕はその甘苦い味にため息をついた。これはまるで僕と同じだ。甘さを覚えて欲しがるその葛藤に自己嫌悪を感じる。 「三登、腹でも痛いの?あまり無理すんなよ。」 同僚の清水さんが心配そうに僕に声を掛けて来た。出張で居ない片桐チーフの隙間を埋めるかの様に、お昼に誘ってくれた清水さんが気を遣ってくれる。僕は慌てて首を振るとにっこり微笑んだ。  「全然大丈夫です。この甘くて苦いのが人生みたいだなって思ってただけですから。」 僕がうっかりそう言うと、清水さんはニヤリと笑った。 「お?おお?最近の三登は何か一皮剥けた感じだと思ってたけど、プライベートでも色々あったみたいだなぁ。一応俺も経験は豊富な方だからさ、悩みとかあったら相談に乗るからな?いや、俺もさ、最近…。」 清水さんの最近のマッチングアプリの恋愛事情を笑いながら聞いていた僕は、僕から話が逸れた事に少しホッとしていた。流石に清水さんに話せる事はない。  「チーフが出張で、たまには息抜き出来ていいだろう?最近は三登とチーフのコンビもこなれて来た感じしてるけどさ。でも後ひと月で指導ペアも終わりだからさ。もうちょっとの辛抱だぞ。」 そう言って笑う清水先輩の慰めは、僕にはまるで違う効果を生み出していた。…後ひと月で、僕たちのコンビは解消されてしまうんだ。堂々と二人で顔を突き合わせて仕事を教えてもらう事も、一緒に帰ることも出来なくなってしまうのだろうか。 勿論仕事の同僚には変わりないし、上司なのだから今とそう変わる訳じゃない。でも僕にとっては言い訳の様なものが無くなってしまう。チーフはどう考えているのかな。  一人暮らしの部屋でAI画像の編集をしながら、日々進化していくAI画像に流されていく様な気分になっていた。身代わりにしたAIのミコトは、もはや独り歩きして僕には誰か知らない人のアカウントの様に思えて来ていた。 それは僕が生身の体温の温かさを知ってしまって、SNSでの空虚なやり取りに今ひとつのめり込めなくなったせいもあるかもしれない。 「潮時かな…。」 そう言葉にしてしまえば、繋がっているフォロワーとのやり取りも、イイねマークを押すことさえする気になれない。  チーフとの指導ペア解消のタイミングで、ミコトのアカウントを削除しよう。そう考えてしまえば、いつもなら流れてくるコメントを全部チェックして、常連さんにありがとうマークくらい返すのに、それもしないでスマホを閉じた。彼らだって、ミコトが居なくなれば、次の推しを探してコメントを投げるのだろうし、いや、今だってしてるだろう。 自分がどれだけ必死にミコトにしがみついていたのかと、妙に達観してしまった。今の僕ならきっと、生身の三登洸太として仲間の居る場所へ遠征に行ける…はずだ。  僕は隼人さんの居ないこの週末、そんな場所に行ってみようかと思った。そう決心してしまえば、散々妄想した準備万端な僕の頭の中には情報は貯まっている。 僕は緊張と期待に胸を締め付けられながら、金曜日の夜に初心者向けとされているバーに行こうと決めた。この事は別に隼人さんにあえて言う必要はないと思った。何となく言えない気がした。別に隼人さんと付き合ってる訳じゃないから秘密にする必要はないのだろうけど。  ソワソワしていたのが分かったのか、金曜日の帰り際に清水さんにデート頑張れよと声を掛けられた時には思わず苦笑してしまった。全然違うのに。でも一瞬チーフが居なくて良かったとも思ってしまった。誤解を受ける様な事は聞かれたくない。 目指すバーは分かりやすい場所にあって、そんな所も初心者向きなのかもしれない。スーツで行くのはどうかと思ったけれど、私服はまたハードルが高いので、金曜日の夜という事であえてスーツにしたんだ。  店の中へ入ると、注目されているのが分かった。僕が初めてこんな場所に来たのがバレているのかもしれないとも思ったけれど、僕は周囲に目を向ける余裕もなくて、真っ直ぐにバーカウンタへと進んだ。 バーのママは、裏声で優しく声を掛けてきた。やっぱり初めてだと分かるらしくて、あまり強くないカクテルを勧めてくれた。ママの対応にホッとして気を緩めると、隣のスツールにガタイの良い若い男が座った。  「見慣れない顔だけど、今夜は相手探しに来た?」 もしかしたら大学生かもしれないと思わせる若い男は、僕の顔をじっと見て、それから全身に視線を這わせた。まるで値踏みされる様なその視線に一気に羞恥心が襲ってくると、手元のカクテルを誤魔化す様に口元に運んだ。 「…どうなのかな。こんな場所に来たのは初めてだから。」 僕がカクテルで一気に熱くなった身体を覚まそうと首元に指を入れてネクタイを緩めると、若い男は楽しげに僕の耳元で小さな声で言った。  『俺、あんたみたいな初心なサラリーマン、ぐずぐずに可愛がるの大好きなんだ。どう?俺上手いよ。』
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