夏の終わりに、前を向く

1/6
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ
 逃げた  逃ゲタ  ニゲタ  夢の中でどんどん大きくなる声。ノイズ混じりのその声は、僕を責めたてるように頭の中に響き渡る。 「うるさい!」  脳内を占拠したノイズを振り払うように、それ以上に大きな声をあげて飛び起きた。  目を覚ましたはずなのに、夢は終わったはずなのに、鳴りやまないノイズ音。 「あ、アブラゼミの声……」  僕の家じゃ滅多に聞こえないアブラゼミの声が、目覚まし時計よりも早く、大音量で鳴り響いていた。 「りっちゃん? 起きた?」 「おばあちゃん。うん。今起きた」 「りっちゃんは早起きだねぇ」 「蝉の声で起きたんだよ」 「そっかぁ。窓、閉めておけばよかったね」 「ううん。大丈夫」 「ほら、そんなに汗かいて。暑かったね。朝ごはんの前にシャワー浴びておいで」  僕の汗は暑いからじゃない。  あの変な夢を見た朝はいつもこうだ。  冷や汗で、パジャマもびしょ濡れで。それをわかってるおばあちゃんが、暑さのせいにしてシャワーを勧めてくれる。 「はぁーい」  少し子供っぽく、わざと間延びした返事をして、僕はお風呂場に走った。  シャワーから流れ落ちるお湯の音に混じって聞こえる声。耳に残るその声は、隙あらば僕のことを責めてくる。  誰かに言われた言葉じゃない。  僕の中から出てくる声。  確かに僕は逃げたけど。  立ち止まることは許されない。  動き続けなければ、この声は僕の中で鳴り響く。 「朝ごはん、もう食べる?」 「うん」  おばあちゃんの作る朝ごはんは、しっかりした和食。お母さんの作る朝ごはんと違って、ちょっと特別。 「今日も、どこか行くの?」 「うーん。どうしよっかな」 「たまには、家でゆっくりしたら? 毎日行くところもないでしょう。それに、最近お天道様の機嫌が悪いから、突然降ってくるよ」  毎日毎日慌ただしく動き回る僕のことを、おばあちゃんが心配してくれるのは知ってる。  せっかく、おばあちゃんの家に来たのに、居座ろうともしない僕。  ごめんなさい。  でも、立ち止まったら、あの声が追いかけてくる。  僕は逃げてここに来たのに、今度はあの声から逃げ続けてる。 「傘持って行くから大丈夫。今日はね、神社にある大けやきまで行きたいんだ」 「そう。気をつけて行っておいで。お昼までに戻ってね」 「うん!」  まだ途中だった朝ごはん。お味噌汁を最後のひと口まで飲み切って、僕は食卓から離れた。  おばあちゃんの家を出れば、朝の太陽はこの世界で一番目立とうと、必死になって地上を照りつける。  その日差しに負けないように、アブラゼミも全員が一団となって応戦中だ。  その戦場から急いで立ち去りたくて、神社までの道を早足で歩いた。  神社までの道のりは、ちゃんと舗装されてる道もある。それでも僕は、わざわざ田んぼのあぜ道を進む。  じゃりじゃりと足が砂や石を踏みしめる感覚や音を味わって、真っ青な空に浮かぶ、少し固くなったわたあめみたいな白い雲を見上げる。  ここで見上げる空は、いつだって広い。  左右をビルに囲まれて、視界を横切るように這う電線。  僕の知ってる空は、額縁で囲まれたような空。  テレビで見るような、視界一面に広がる青い空なんて、別世界の話だと思ってた。  青空から視線を落として、左右の田んぼに目をやれば、若草色の葉の塊の中、守られる薄黄色の粒。まだ一人前には程遠い稲が、少しずつその体を重くしていた。  鼻から入り込むのは、土と水の混ざった泥水の匂い。  むせかえるような熱気が、ただでさえ曲がったあぜ道をさらに歪ませて、その先にあるはずの神社が、遠くに感じる。    田んぼを抜ければ、一本道なはずの神社は、夏の暑さのせいで思った以上に遠く感じて、半分を過ぎた頃には息も上がって、汗だくで。  神社までの道の途中、足を止めてわずかばかりの風を全身で感じようとした。 「あ、雨の匂い……」  吹き抜ける風に全身を預けていた僕は、その中に混じる雨の匂いをすぐに感じることができた。  それと同時に、大きな失敗を思い出す。 「傘、忘れたのに」  僕が独り言を言い終わるのを待たずに、頭に水が落ちてきたのを感じた。  最初のひと粒を実感したら最後、認識された雨は、ここぞとばかりにその威力を増していく。  さっきまでカラカラで、砂埃が巻き立つぐらいだった道が、徐々にその色を変えて、その地面から立ち込める雨の匂い。  灰色のTシャツにドット柄がつき始め、徐々に全体へと広がる色。 「やば……」  元来た道を振り返れば、既にその距離は遠く、体力のない僕が焦って走ったとしても、びしょ濡れになる未来しか見えない。  雨が降る前は歪んで見えたその道は、神社への距離が思ったよりも近いことを僕に教えてくれる。  神社まで走って、雨やどりして、雨が止んでからゆっくり帰ろう。  そんな風に自分の動きに計画を立てて、僕は足の裏の地面を大きく踏み込んだ。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!