疑心

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疑心

 私には十月の記憶がない。  洲崎(すざき)真木(まき)のその告白を聞きながら、男はペンを走らせた。 「ですからその、霧の前後のことならお話できますが、については、はっきりしたことがお話できないんです。それでもよろしいんですか、」 「ええ、もちろん。」  明道(あけみち)――というらしい男は、無精髭の生えた口もとに人懐こい笑みを浮かべながら、手帳のページを捲ったり戻したりしている。 「事前にお話させていただいた通り、霧の出ているあいだのことはあなたの日記をベースに教えていただければ良いので。それで、十月でしたっけ、記憶が消えるというのは。きっかり十月なんですか?」 「……いえ、正確には、霧が出ている一、二週間のあいだです。大体十月の頭くらいから、中旬にかけてでしょうか……ご存知かもしれませんが、小河(おごう)(ちょう)では、どんなに気象条件が揃っていなくても必ず霧が出る期間があるんです。それこそ山全体を覆い尽くしてしまうような。」  明道のペンがサラサラと何かを書き留めていく。机の横にはICレコーダーが置かれていたが、どうやら大切なことは直にメモを取るタイプらしかった。ミミズが這ったような字が大量生産されていくのを、真木は気づかれないようにそっと見つめた。  真木の前ではまだふた口しか飲んでいないコーヒーの湯気が揺れている。古臭い喫茶店の暖房は効きが甘く、窓際の席は頭から氷水を浴びせられているのではないかと思うほどに冷たかった。着ていたコートを膝にかけることで寒さを紛らわすほかない。 「十月の霧、ね。まあ僕もその辺の記憶はないですけどねぇ。イベントがないじゃないですか、他の月と比べて。そういうのとは違うんですか?」 「いえ……違います。なんというか……空白なんです。昨日まで十月一日だったはずなのに、目が覚めると十月二十日になってる。厳密には十月十日のときもあるし三十日までかかるときもありますが……とにかく、忘れてしまうんです。霧の期間のことは、全部」
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