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募る愛しさ
春の麗らかな陽と柔らかな風が室内に入り込む。
朱咲家の邸、その執務の間で政務を行っていた結月は、ふと顔を上げた。
こちらに向かって馴染みの気配が二つ近づいてくるのを感じて、結月は彼らを出迎えるべく玄関に向かった。
「こんにちは、ゆづくん」
「邪魔すんぜー」
「いらっしゃい、昴、秋」
朗らかに微笑む昴と元気そうに片手を上げる秋之介。二人が玄関に着くのと結月が扉を引き開けるのはほぼ同時のことだった。
昴と秋之介も結月の気配が近づいてきていることに気づいていたらしく、特に驚いた様子は見せなかった。
「今日の出迎えはゆづひとりなのか」
「うん。あかりは今、稽古場にいる」
「あかりちゃん、忙しそう?」
「わからないけど、秋と昴が来たって言えば、多分、大丈夫」
結月は秋之介と昴を連れて、まず稽古場に向かうことにした。
稽古場が近づくにつれて、たくさんの活気の良い声が聞こえてくる。その中でも結月が最も明瞭に聞き取ったのはあかりの声だった。
「言葉ひとつひとつを丁寧に紡ぐの。そうすれば自然と言霊になるから」
年下から年上まで男女問わずの人々がいる中で、あかりは同い年くらいの青年たちに言霊の扱い方を教えていた。幼なじみたちほどではないにしろ親しげに話しており、ときどき笑い声があがる。あかりも青年たちも稽古に楽しそうに取り組んでいた。
「楽しそうだねぇ、あかりちゃん」
「……うん」
辛かった戦いの日々を思えば、今こうしてあかりが憂いなく笑えていることは喜ばしいことのはずなのに、結月の声は暗い。
昴はおやと目を丸くし、秋之介はにやにやと笑い出した。
「まーた気にしてんのかよ、ゆづは」
「……放っておいて」
完全に面白がっている秋之介を結月はひと睨みする。結月は正面に向き直ると小さく息を吸い込んだ。
「あかり」
結月の声は決して大きくなかったが、あかりにはしっかり届いたようだった。満面の笑みで「結月」と振り返る。そして結月の後ろに秋之介と昴もいることに気がついて、笑みを深めた。
「わあ、来てくれたんだ、二人とも!」
「お邪魔してます、あかりちゃん。今忙しいかな?」
結月の背後からひょっこり顔を出した昴が手を振る。
あかりは稽古場の皆に解散を言い渡すと、ぱたぱたと結月たちのもとへ駆け寄ってきた。
「今日は来られるかわからないって言ってたのに。会えて嬉しい!」
もしあかりの狐の尾が顕現していたらぱったぱったと左右に大きく揺れていたことだろう。あかりは上機嫌そうに、にこにこ笑っている。
そんなあかりの頭をわしゃわしゃと撫でながら、秋之介はにっかりと笑い返す。
「そんだけ喜んでくれりゃあ、来た甲斐があるってもんだぜ。それにしても稽古はよかったのか?」
「うん、もう終わりにするところだったから。あ、お昼ご飯一緒に食べない? 私、お腹空いちゃって」
「ふふ、あかりちゃんは今日も元気だね」
歩き出す三人の後を結月もゆっくりついていく。するとあかりがぱっと振り返って、結月の隣に並び立った。あかりは立ち止まると結月の顔を覗き込む。
「結月、何かあったの?」
「え?」
「なんだかちょっとだけ暗い顔してたから。大丈夫?」
「……」
あかりの勘の鋭さに驚き、かといって本当のところも言い出しにくかった結月はつい言葉に窮してしまった。
するとあかりはそれをどうとったのか、伸ばした右手を結月の左手に重ねた。
「あかり?」
「元気になるおまじないだよ。私の元気がないときに結月、よくこうしてくれるでしょ? こうするとね、元気が出てくるんだ。ね、どう?」
眩しく無邪気な笑みを向けられて、結月は目を瞬かせた後、ふっと柔らかに微笑んだ。
「やっぱり、あかりには敵わないね」
二人は手を繋いだまま廊下を歩き出した。
秋之介と昴が帰った後、結月は夕食を済ませ、湯浴みも終えて縁側に座って夜空を眺めていた。ほとんど円に近い月から冴え冴えとした光が地上に降り注ぐ。
ひとりになると昼間のことが思い出された。
昔からの癖が抜けないのか、結月はあかりが秋之介と昴を除く同年代の男子といるところを見ると焦りにも似た不安に襲われることがよくある。それは婚儀の後でもあまり変わらなかった。
あかりが楽しそうにしていることも、幼なじみ以外の人の輪に加わっていることもよいことだとは思う。けれど、いつか自分を置いてそちらへ行ってしまうのではないかと無性に怖くなるのだ。
その度に、自分の世界の狭さと器の小ささに嫌気が差す。
「はぁ……」
無意識にため息が漏れる。そのときだった。
「ゆーづきっ」
「⁉」
背中に柔らかな体温と軽く体重を感じる。結月の首に細い腕が回ってきて、左肩からあかりがひょっと顔を出した。
「あ、あかり……」
結月は少しだけ首を回して左側を見た。突然背後から抱きつかれたからか、それとも至近距離にあかりの顏があるからか、心臓の音がうるさい。
「結月、やっぱり今日は元気ないね」
振る舞いこそ明るくしようと努めているあかりだったが、その微笑みはどこか寂しげでもあった。
結月は思わず息をのむ。
「結月が元気ないと、私まで悲しくなっちゃうよ。……やっぱり話してくれない?」
冗談めかしていても、その言葉があかりの本心であることに気づかないほど結月は鈍くない。そして自分の浅慮さを呪いたくなった。
自分の保身のためにあかりを傷つけている。そのことにようやく気づいたのだから。
結月はくるりと身体を反転させると、正面からあかりを抱いた。
「わわっ」
あかりは突然のことに慌てていたけれど、辛うじて体勢を保つと結月の背に腕を回した。そうして「どうしたの、結月?」と優しい声でささやきかける。
結月は「ごめんね、あかり」と呟くと、昼間のことを正直に打ち明けた。
呆れられるかとも思ったが、結月の予想に反してあかりはくすぐったそうに笑っていた。
「新しい発見かも」
きょとんとする結月にあかりは「だって」と笑ったまま続ける。
「二〇年近く幼なじみをやってるのに、結月のこんな一面、今まで知らなかったんだもの」
「呆れないの?」
「なんで? むしろ私って愛されてるんだなぁって嬉しいくらいだよ」
あかりはくすくす笑って楽しそうにしている。
全くの予想外の反応に結月の方が戸惑っていると、すっと赤い瞳を向けられた。
「でもね、結月」
「な、何?」
「結月が私を想うように、私だって結月のことが大好きだから。結月をひとりにはしないよ。今までだってそうだったでしょ?」
陰の国に囚われたときも、自我を失くしたときも。時間はかかったし、不安になることもあった。けれどもあかりはこうして結月のもとに帰ってきた。
あかりは小首を傾げて柔らかに微笑んだ。
「私のこと、信じてほしいな」
「……そんな言い方、ずるい」
返事の代わりに、結月はあかりを抱く両腕にぎゅっと力をこめた。あかりは「苦しいよー」なんて言いながら結月の腕の中で笑っている。
幼なじみとして二〇年近くをともに過ごしてきたが、お互いの知らない一面はまだまだありそうだ。夫婦になったからこそ新たに知ることもきっとある。その度にこうして愛しさが募っていくのだろう。
「あかり」
「ん? なあに、ゆづ……」
溢れそうになる愛しさを伝えたくて結月は、笑顔のまま顔を上げたあかりに口づけを落とした。
「⁉」
不意打ちにあかりは目を潤ませ、耳まで真っ赤にしている。そんなあかりを結月は優しく抱き寄せると、耳元で囁いた。
「あかり、大好き。愛してる」
愛しさは驚きを超えて。あかりは甘やかで優しい微笑みの吐息をもらした。
「……私もだよ、結月」
二人の夜はまだ長い。
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