ヒカリ(7)

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ヒカリ(7)

 まだ夜の色をした空の下を、新宿駅まで歩いた。バスターミナルの巨大な電光掲示板に映しだされた便名から適当な行き先を選び、出張中らしきビジネスマンや、一足早い休暇だろうか大きなキャリーバッグを抱えた家族連れに混じって、待合所のベンチでバスを待った。それぞれの行き先のためにひとときここへ集った人々の中にいて、まるで自分たちだけが人間の皮を被ったエイリアンのようで、にわかな逃避行は、少し笑いたくなるくらいにはドラマティックな気分で始まった。  やがて買ったチケットの出発時刻になり、乗り込んだほとんど貸し切りの高速バスのシートを遠慮なく後ろへ倒すと、そのうちすっかり眠り込んだ。それから何時間経ったのか、何度目かの車内アナウンスにふと目を覚ますと、隣のシートのエムがひじ掛けを乗り越えてまでルミナにしがみついて眠っており、ベッドの中でもバスのシートの上でも、たとえ地球の最後の日でも、彼はこうしていないと眠れないのかもしれないと、やはりおかしみが込み上げた。  降り立った終点から、さらに海を目指す。JRの駅からローカル線に乗り換えて南下した小さな駅で降りると、冷え冷えとした曇天の下にぽつんと建った寂れた駅舎には、かつて売店だったのだろうシャッターの下りた空き店の脇に、ひっそりと自動販売機が一台あるきりだった。 「どれがいい?」  しばらく指をさまよわせたエムが、ずらりと並ぶボタンのひとつを押す――ガタン。ルミナの放ったホットレモネードのボトルを両手で危なげなくキャッチすると、彼は宝石でも贈られたように目を輝かせ、声を弾ませた。 「ありがと」  お互い呪文のように「寒い」と繰り返しながら、微糖のコーヒーとレモネードをひと口ずつ交換して、無人のロータリーで路線バスを待った。  時刻表ぴったりにやって来たバスに乗り、堤防沿いのバス停で下車する。ステップを降りた瞬間にコートの裾がめくれ上がり、吹きつける砂に堪らず目を瞑ってしまうような、風の強い海岸だった。  砂に埋もれかけた石段を下り、波打ち際まで出る。引いていく波を追いかけ、それが勢いよく押し寄せれば逃げる。飛沫がかかるたびにエムは愉快そうに笑い、砂に足を取られてはよろめきまた笑う。 「エム、近づきすぎ」  おぼえたての遊びに興じるようなエムの行為を窘めるが、躾の悪いペットでもあるまいに、彼はそれをやめなかった。それから、転々と漂着したゴミの中から流木と呼ぶには貧相な枝を一本拾い上げ、砂浜に線を引き始める。 「ルミナくん、見て」 「――バーカ」  ルミナを呆れさせた相合い傘はすぐに波にさらわれ、次に描いたスマイルのマークもじきになくなると、エムはバトンのようにくるくると器用に回した枝をあっけなく手放した。 「ルミナくん――――いつ?」 「なに?」 「海。最後に海来たの、いつ?」  波音に消えたせりふをエムが両手を口の横に立てて繰り返すので、同じように大声で返す。 「おぼえてないわ」 「俺ね、海っていえばハワイだった」 「金持ちかよ」 「うん。夏休みと冬休みには海外行くような家だったんだ」 「へえ」 「父親が大企業に勤めてた。夫婦仲はきっと冷えきってたけど、ひとりっ子だったから、俺は両親に甘やかされてたよ」  潮風でくちゃくちゃになったピンク色の髪、真っ赤にかじかんで見えるピアスだらけの耳、そこだけ彼を幼く見せる薄いそばかす。笑うと途端に溢れだす愛嬌が果たして少年の面影なのかは、自分にはわからない。 「高校生の時にね、父親が逮捕されたんだ。横領事件で、すっごいニュースになった。毎日テレビで流れて、家の周りはマスコミだらけで。会社のお金、愛人に貢いでたんだって。テレビで知ったんだけど」  今は冷たい横顔が、荒れる沖を眺めている。 「でね、死んじゃったんだよね、父親。ガレージで首吊って。その時の遺書まで報道されてさ、その前からうちはめちゃくちゃだったけど、ほんとうにおしまいって感じだった。母親も愛人のところから戻らなくなって、俺は友達とか先輩のところ転々として……気づいたら、こんなふうになってた」 「……あーそ」  相槌はたぶん、一際高く押し寄せた波と、飛び上がったエムの悲鳴じみた歓声に巻き込まれて、彼には届かなかっただろう。エムの腕を引っ張って、波打ち際から遠ざける。 「何してんの」 「ごめん」  へらりと笑いながら見上げてくるエムの、掴んだ左腕の袖を捲り上げる。 「お前みたいなやつってさ」  剥き出しになった青白い腕の内側を撫でる。 「ここ、ぼろぼろのやつ多いけど」  そこには青い血管がうっすらと透けるだけで、身体じゅうあんなに傷跡だらけだというのに、自らを傷つけた痕はひとつもない。 「きれいだよな」  エムはきょとんと見開いた目を数度瞬いて、口元だけで小さく笑った。彼の袖を元に戻し、どちらのものともわからない冷たい手をコートのポケットにねじ込む。絡んでくる指を握り返して、ルミナはぼそりと足元に呟いた。 「うちは片親だったよ。でも母親以外にも何人も母親代わりのおばさんがいてさ、母親の彼氏も、クズみたいな男もいたにはいたけど、いい人のほうが多かった」  息子に月光成(るみな)なんて名付けるような親だったが、愛情深い女だった。 「自分みたいになるなって言って、俺を大学まで入れたよ。親の心子知らずで、俺は遊んでばっかで……痛い目見た。先輩に目ぇつけられて、飲み会だって呼び出されて、酒と薬飲まされて――――輪姦(まわ)された」  ぎゅっと、エムの指が強く絡む。いや、自分の手に力が入ったのかもしれない。どんなに押し込んでも、どれだけ時間が経っても、いとも簡単に強烈によみがえる記憶だ。 「官僚だか政治家だかの息子だったから、示談でおしまい。同じようなこと何度もやってんだろ、向こうは手慣れたもんだったよ。退院してすぐ、大学の喫煙所で見かけてさ。何事もなかったようにへらへらしてんの見たら、抑えらんなかった。そいつの口に煙草突っ込んで殴っただけで、警察呼ばれて、あれよあれよと俺は退学処分。そっからは簡単、俺も気づいたらこんなふう」  母親は怒りながら泣いた。一度レールを踏み外せば、元の生活には戻れなかった。惨めさを抱いたまま、生かされている日々だ。いつまでも囚われたまま、終われないでいる。  くちゃくちゃの髪が頬をかすめる。ルミナを正面から抱きしめたエムが、肩口に額を擦りつけて、くぐもった声を上げる。 「俺、ルミナくんといたい」  呼吸にうごめくブルゾンの背中を抱き返す。ルミナは冷えきったピアスの連なるエムの耳に、唇をつけた。 「俺は、お前だから助けたわけじゃないよ」  鉢植えも熱帯魚も保護猫も――エムも。どれもかわいそうで、どれも特別じゃなかった。あの夜にカウンターでカルーアミルクを飲んだのが彼でなくとも、きっと同じように連れ帰った。何かを、誰かを特別に大切にするための、そういうのを信じるための回路はもう切れてしまった。身体の電池は入ったまま、心まで届かなくなった。いつもそこには、空を切るばかりのぽっかりと穴の開いた錯覚があった。 「お前だって、俺じゃなきゃいけないわけじゃないだろ」  寂しいからと見知らぬ他人と寝る。生きるために売った傷だらけの身体で、今、この瞬間ここにいるのがルミナだというだけで、必死にしがみついてくる。 「俺だけって言ってよ。そうしたら、俺、ルミナくんしかいなくなる」  そんなエムが厭わしい。かわいそうでしょうがない。厭わしくて、かわいそうで、もっとままならなくてもっともどかしい、煩わしいばかりの感覚が込み上げる。 「俺、ルミナくんがいい」  ルミナの背中をきつく抱きしめて、肩口に、首筋に、顔をすり寄せる。ルミナもまたエムの背中をきつく抱きしめて、彼の頬に頬を擦りつける。 「……まともじゃねーよな」  自分たちはお互いに、まともでないのだ。
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