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それは、女神がいると言う森の中。 と言っても、その姿を見た者はいない。 昔はいたらしいけど。 今はもう、いないのかもしれない。 静かな滝壺のほとり。 フクロウが泣いていた。 涙の落ちる音がする。 寝床に差し込む月明かりが眩しくて。 目を閉じてもジリジリと、白い光がこっちを見ていて。 身体が熱を持っていた。 頭も。 目も。 天幕を開け放って夜風を招き入れても。 一向に冷めてくれなかったのだ。 森に入ると、裸足に感じる土が冷たかった。 足の裏まで脈打つように熱い。 腰に差した短剣に、虚しくなる。 青白く照らされた滝にたどり着いた。 岩の上に腰かける。 腰布が突っ張るので、短剣を抜いて傍の岩に置いた。 一息ついた時。 月が。 こちらを見ていた。 滝のせいで木の葉の屋根が少し途切れて、その丸い目が、こちらを見下ろしていた。 しばらくの間、目が合っていた。 いつのまにか、フクロウの声がしなくなっていた。 「あまり見ているなよ。  目に毒だ」 その声は、急に背後から降って来た。 「誰」 飛び上がって振り返った拍子に、短剣に足がぶつかった。 チャポンと情けない音を立て、唯一の武器が滝壺に落ちる。 しまったと思った後で、言葉を発する人間相手には不要だと思い直し首を振る。 そもそもあの短剣は、もう捨てようと決めたものだ。 ずっと昔、父が作ってくれたもの。 12歳の祝いにと、先日腰に差したばかりだった。 もう使うこともない。 「村の子どもか」 木の影から姿を見せた声の主は、長い衣をまとった男の姿だった。 「こんな夜に出歩くものではないよ。  まして月を見ているなんて。  満ちた月と目を合わせてはいけないと、  老人たちに教わらなかったのか?」 「あなたはいいのか?」 そう問うと、男は笑って月明かりの前に進み出た。 「俺はいいのだよ」 足場の悪い深い森を歩いてきたのだろうに、息も上がらずに涼しい顔をしている。 「なぜこんな夜に」 「眠れなくて」 岩の上で、熱い身体を歪めた。 汗があごを伝って膝に落ちる。 苦しい。 「眠れない」 ようやく男にも見えたらしい。 「それは…」 右腕を見ていた。 正確には、右腕が無いことを。 「獣にやられた。  耳と、背中も齧られて」 おとといの夜のこと。 暗闇から現れた姿も見えない獣に、肩から先を持っていかれた。 髪をかきあげ、顔面の傷も見せる。 男は、ゆっくり近づいてきた。 長い衣は、見たことのない刺繍が施されていた。 その長い袖から指先を出す。 「気の毒に。  痛むのか」 そっと。 顔の傷に触れる。 「村の奴らは自業自得だと言った。  女のくせに狩りの真似事などするからだと」 いく筋もの牙の跡。 喉元を食い破られないよう、残った左手で獣の口と首の間に短剣を入れた。 砕かれた腕の骨が、口の中で転がって音がしていた。 「父さんも、  父さんの父さんも同じ。  獣に喰われて死んだ。  私の血肉は美味しいんだろうよ」 男は少しだけ、すんと匂いを嗅いで。 何も言わずに笑った。 触れる男の手からは、何か植物の匂いがする。 「あんたは一体何者?」 見たことのない刺繍。 見たことのない顔。 狩りなどしなそうな細い身体。 着物の袖から見えた手には入れ墨。 「それ、母さんや村の女の手と同じ」 手の甲に、骨に沿って入れる5本線。 その間を縫う蔦模様。 手は白く骨貼って、冷たい。 入れ墨に触れる。 左手が。 震える。 「綺麗だね」 震える。 「横になりなさい」 男の長い衣を枕に。 岩の上に横たわる。 「知っている?  ここには女神がいると、  村の奴らは言うんだ」 男はくすりと笑った。 「女神などいないよ。  いるのは獣たちだけだ」 「女神の涙はどんな病にも効く薬になるって」 「ただの毒さ」 自分の身体から腐臭がする。 「…死ぬのは怖くない。  この苦しみを終わらせたくて」 それでこの滝壺に来たんだ。 あの短剣だけが、先に行ってしまった。 「…女神の毒を飲むか?」 「女神はいないって」 「苦しみから解放される。  飲めば15日で死に至るけれど」 「そんなに生きられないさ」 数日のうちに、この身体は腐って死ぬ。 男は、その刺青の入った手を空にかざした。 月の輪郭をゆっくりとなぞる。 なぜか。 見ているだけでひんやりと。 その指先が凍えるのが分かる。 おろした指先に。 ひと雫の、銀の光。 それが舌の上に溶け。 ぐにゃりと。 景色が歪む。 確かに毒だ。 熱も。 痛みも。 遠のいていく。 「眠りなさい」 見上げた月は。 ひと雫の分だけ僅かに。 その銀色の目を伏せていた。 満月が、欠ける瞬間。
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