クズ

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 さっきの「ハナちゃん」で、本当に久しぶりにあいつのことを思い出した。今、どこで何をしているんだろう。エレベーターを待つ間に「生田聖大(いくた まさひろ)」を検索してみると、商社の採用ページ、男性の育児休暇取得についての紹介記事がヒットした。「研究職に就く妻と相談して……」という言葉に、あの時感じた胸の疼きが一瞬だけ蘇る。一番上に大きく載っている写真には、懐かしい笑顔と、鈍く光る結婚指輪が写っていた。  やっぱり、俺のタイプだ。好きだった。この顔も、この手も、あの声も、あの仕草も。俺の話をよく覚えているところも、どんな時でも嫌な表情を見せないところも、寂しくなれば擦り寄って甘えてくるところも。  でも、俺は知っている。こいつは、正真正銘のクズだ。嘘つきで浮気性のくせに、いけしゃあしゃあと、何が「妻と子どもの幸せのために」だ。  生田からの最後のメッセージは、あいつなりのケジメなんだと今なら思う。俺が浮気なんてできない臆病者だと知っていて、俺が自分に惚れているとわかっていて、敢えて俺に断らせることで終わらせたんだ。引き際を弁えているのは、それだけ修羅場を潜ってきたからなのか。それとも、あいつも少しは俺のこと……。  ふと、考えてしまう。もしも俺が女だったら、あいつがゲイだったら、俺がノンケだったら、もしも出会ったのが子供の頃だったら、反対にもっと年老いてからだったら。俺たちは恋人になっただろうか。それとも親友になっただろうか。2人で色々なところに行っただろうか。たくさん喧嘩しただろうか。もっとお互いを真剣に思い合えただろうか。何かひとつ違えば、全く異なる結末になっていたかも知れない。  だとしたら余計に、こういう形で出会えてよかったと思う。あいつに対して培った感情は愛情でも憎しみでもない。悲しみでも、虚しさでもない。もっと、もっと薄ぼんやりとしていて、体温のような、空気みたいな、あってもなくても変わらないもの。だけど、確実に今の俺を形作っているもの。  あぁ、本当に。俺にとって、お前がクズで、本当によかった。  隣のビルに入っているチェーンのカフェで、期間限定のマロンクリームラテと、南山さんのアイスブラックと、それから、隼人が好きな産地のコーヒー豆を買う。社内にもカフェテリアはあるし、何なら自動販売機は無料だけど、どうしても他所のものが飲みたくなってしまう。堂々とそれができるのは、市場調査という言い訳がきくマーケティング部の特権だ。  俺も大概クズだけど、今は普通に幸せ。それに、これから先も、幸せになるつもり。そばにいる大切な人を、幸せにしたいと強く願ってもいる。  スマホの画面に映るくしゃくしゃの笑顔をスワイプで消しながら、子育てに翻弄されてくたびれた生田の姿なんて見たくなかったと思った。それと同時に、こうして穏やかに笑う顔を見られてよかったとも。俺の記憶の中の生田は、悲しそうな瞳をしたままだったから。  あいつがこの世界のどこかで、平穏な日常に満足していますように。この笑顔が、俺ではない他の誰かの前で、嘘偽りのないものでありますように。 (了)
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