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 湿気を必要以上に含んだ空気に包まれて。目覚めるとそこは暗闇だった。石で囲まれた何もない部屋だ。  おれの記憶はここから始まった。これより前の記憶はいくら頑張っても思い出すことができない。  自分の名前さえもだ。  ひとまず部屋を調べてみる。何かあるかもと思ったが驚くほどに何もない。  そもそも扉がない。  不思議だ。どうやっておれはこの部屋に入ったのか。壁をすり抜けたとしか考えられない。  そういえば服も着ていない。  ふむ。おれが壁をすり抜けたのだとすれば、そのとき服も一緒にすり抜けたのだろうか。それが事実としてもわけがわからない。  おれは一体だれで、  これは一体どういう状況なのか。  考えようにもこの部屋には何も無さすぎた。  そう言えば。  不思議なことはまだあった。窓もドアもない暗闇のなかでなぜおれはこの「部屋」を認識できているのだろうか。まるで見えているかのように部屋全体を知覚できている。  ふむ。  しばらく呼吸を止めてみる。いくら息を止めても少しも苦しくない。呼吸はしてもしなくてもどちらでも良いようだ。この部屋の空気は少し臭いから、呼吸せずにすむのはありがたい。 「……」  おれはどうやら思っていた以上に異常な状況にいるらしい。すぐに死ぬことはなさそうだが、このまま部屋にいてもやることがない。  どうにかして部屋の外に出られないだろうか。ふと思い立っておれは立ち上がった。それから壁に向かって駆けだした。  勢いさえあれば壁を抜けられるかもしれない。そうだ。入ることができたのなら出ることだってできるはずだ。  それは希望への全力疾走だった。……壁の向こうへいざいかんっ! 「ぶふぇえっ!」  そしておれは壁に顔面から思い切りぶつかった。そのままぶっ倒れて床に後頭部までぶつけた。めちゃくちゃ痛いし、鼻から血が出てるし、最悪な気分だ。   「くそっ!」  おれは思わずひとりごとを言った。少しは気が紛れるかと思ったのだ。「画面」が現れたのはそのときだった。 ────────────────────   「ぶふぇえっ・くそっ でよろしいですか」 →はい  いいえ ──────────────────── 「!?」  なにがよろしいのだろうか? なにが「→はい・いいえ」なのか? そもそも何だ? この画面は? おれは画面を注視した。おれは画面の全体を認識できていなかったようで、よく見ると他の文章も書いてある。正しくは、 ──────────────────── 「あなたのお名前は、  ぶふぇえっ・くそっ でよろしいですか」 →はい  いいえ ────────────────────  だった。  なに、これ。わけがわからなかったが、とりあえずこれだけは言っておこう。 「いいえっ!」  おれの名前が、ぶふぇえっ・くそっ でよろしいわけがなかった。おれは全力のいいえで断った。はずだった。 ──────────────────── 「ではあなたのお名前は、  ぶふぇえっ・くそっ・いいえっ でよろしいですか?」 →はい  いいえ ────────────────────  ヤバい。いいえの選び方がわからない。このままだと変な名前を付けられそうだ。どうやらしゃべればしゃべるほど名前が長くなっていく仕組みらしい。なのでどうにかしゃべらずに「いいえ」を選ばなければならない。  そもそもこの、「→はい・いいえ」の画面が謎だ。文字情報なのに声まで聞こえてくる感じ。まるで喋る文字が宙に浮いているようだ。情報が実体を持ったらこんな感じなのかもしれない。  それはそうととりあえず。  どうにかいいえを選ばなければならない。「はじめまして、私はぶふぇえっ・くそっ・いいえっと申します。よろしくお願いします」なんて自己紹介をするのはいやだ。絶対にいやだ。なにか方法はないだろうか。はい、の横にある矢印マーク、これをどうにかすれば「いいえ」を選ぶことができる気がする。 ──────────────────── →はい  いいえ ────────────────────  おれは「はい」の横の矢印マーク→に狙いを定めた。そしてこれを下に動かすイメージをしてみた。するとなんと矢印マークが下に動いた。 ────────────────────  はい →いいえ ────────────────────  おお……だがこれでいいえを選べたわけではないらしい。矢印マークを動かしただけではいいえを選べない。いいえを選ぶにはさらになにかほかのアクションが必要なようだ。  イメージをすることで矢印が動くのならば……ひょっとするとこの矢印を横に動かすことでいいえを選ぶことができるかも知れない。よし。やってみよう。 ────────────────────  はい  →いえ ────────────────────  おお! 動いた! いいえのいを矢印マークで破壊した! もっと動かしてみよう。 ────────────────────  はい  い→え ────────────────────  んん? 破壊したはずの「い」が復活した。まあいいや、もっと動かしてみよう。 ────────────────────  はい  いい→ ────────────────────  これはまさか?? ────────────────────  はい  いいえ→ ────────────────────  オーマイガ~! 矢印マークがいいえを貫通してしまった。どうやら矢印マークを動かすだけではいいえを選ぶことができないらしい。どうすればいいんだ?? “誰かおれにいいえの選び方を教えてくれ”。  と頭の中で考えた途端、新たな画面が現れた。 ──────────────────── 「よくある質問を参照します。質問を選んでください。 →1 カーソルの動かし方  2 クリックの仕方  3 直感操作の設定方法  4 音声入力の設定方法  5 ポイント管理システムを起動する  6 ヘルプアシスタントの利用方法  7 次元ネットワークの接続設定  8 次元ブラウザを起動する  9 迷宮管理システムを起動する  10 迷宮管理システムの操作方法」 ────────────────────  どういうことだ。いいえの選び方が載ってない。せっかく、なにか親切さを感じる画面を起動したのに選択肢を選ぶ方法がわからないのではどうにもならない。  それにしてもこの選択肢、何やら意味不明の言葉ばかりだ。この選択肢のなかから選ぶとしたらヘルプアシスタントだろうか……。まずい。ヘルプアシスタントをどうやったら選べるかがわからない……ヘルプアシスタントを選ぶためのヘルプアシスタントが欲しいくらいだ。  どうしよう。  とりあえず。おれにやれることは矢印マークを動かすことくらい。矢印を適当に動かしていけばいつか何か起こるかも知れない。がむしゃらに矢印マークを動かして行くか。マジで何か起きてほしいが……。      *  あれからどれだけ経過しただろうか。ずいぶん時間が経った。ほんとうに長い長い時間がたった。おれはいまだに一人だしいまだに部屋から出られていない。  それどころか未だにいいえを選べずにいるのだった。  とはいえ変化はあった。  ひたすら矢印マークを動かし続けた結果、矢印マークの数がずいぶん増えた。よくある質問の画面の文字もずいぶん変化した。今はこんな感じだ。 ──────────────────── 「←く→る質問→→→  ↑↑↓↓  1 カー→→→  □ ↓→ック→→→  →→→→→の設定方法  ↑→→→↓←設定→→  5P9 ←←システム→→↓←  6 ヘルプアシスタントを↓←→  7 次元ネットワーク↓↓か→  ↓←→↓↑ラ→  9 迷宮↑↑→→→  10 →→→↓↑→↓←→方法」 ────────────────────  どうしてこうなったのかわからないが、とにかく今はこんな感じだ。がんばれば文字をすべて矢印マークに変えることも可能かもしれない。すべての文字が矢印マークに代わったとき何かが起きるかもしれない。だからもれは今も頑張って矢印マークを動かし続けている。  うっかり声を出してしまうと名前が長くなるので、喋らないように気をつけていたのだが、気をつけていても声を出してしまうようで、いつの間にかずいぶん長い名前になってしまった。 ──────────────────── 「あなたの名前は、→↑→  85w2149632guhi8889335hhytreew786・ぶふぇえっertinぶふぇえっぶふぇえっ・くそっ・くそっくそっくそっいいえっはいいえはいいえ ggui8nhersfgj8643d7k9g3kでよろしいですか でよろしいですか↓」  はい →→→いいえ↑→↓ ────────────────────  今はこんな名前をつけられそうに鳴っている。こんな名前をつけられるくらいなら潔く死をえらびたいと思う。というわけで絶対に「はい」を選ぶわけにはいかなくなった。  おれはいいえを選びたいだけだったのに、なんでこんなことになってしまったのか。  そういえば矢印マークを動かし続けてわかったことがいくつかある。  まず矢印マークは増える。  一心不乱に矢印マークを動かし続け、しばらく放っておくといつの間にか矢印マークが増えているのだ。  それと矢印マークにもいろいろなバリエーションがあることもわかった。右向き矢印、左向き矢印、上向き矢印、下向き矢印。四種類もの矢印マークが存在しているのである。おれはそのすべてを動かせる。  たとえばこういう動きも出来るようになった。 ────────────────────  ←↑→↓← ────────────────────  おれはこの矢印マークの動きをバク転と呼んでいる。  だからなんだ。だからなんなんだ。  気が狂いそうだ。とっくに狂っているのかもしれない。なんなんだこの空間は。なんなんだこの画面は。矢印は。  幸いなことにおれは空腹で死んだりすることはなかった。酸欠で死ぬこともなかった。病気にもならかった。ただケガはするし痛みも感じるので、ひょっとするとケガをして死ぬことはあるのかもしれない。だがケガさえしなければ永遠にこの部屋で生きられる可能性があった。  ただしこの部屋でやれることは矢印マークを動かすことだけだ。  それが永遠に続くと思うとあまりにも虚しい。虚しすぎた。いっそのことケガで死んでしまおうかとも考えたが、それはできなかった。おれは死ぬのがどうしても怖い。それに希望もないことはない。  「いいえ」さえ……「いいえ」さえ選べたら。  何かが変わって何かが始まる。そんな気がしていた。  
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