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小菊の群れ咲く清安寺の奥庭はひっそりとして裏手に広がる竹林の葉が夕風にさやさやと鳴っていた。空念が侘びた風情の亭子(東屋)の椅子に腰掛ける。柘は傍らに佇みつつ、感慨を覚えた。あの宵、空念と別れたあと、真山の墓のあるこの竹林に来たのだった。
「和尚。少し待っていてください」
空念に言って、柘は石造りの亭子を出た。落葉を踏んで竹林に入り、片隅に立つ小さな墓石の前に立つ。
(真山……)
墓石の下に眠っているのは別人だが、柘には今も真山であるように思えてならなかった。真山のアジトであった蘇州河沿いのガーデンハウスの焼け跡には、蒋の遺体だけがあったと聞く。地下の濁水に浮かんだ真山の遺体は——緑の銃弾に倒れた亜米利加領事館の武官たちは、真山の側近たちは、少年たちは、そして陶の骸は何処に消えたのか——
夕風に煽られ、竹の葉が静かに波打つ。蕭然たる竹林に佇んでいると全てが夢だったかのように思える。けれども血まみれの手で痛いくらいに抱き締めてきた真山の躯の震えを、柘ははっきり覚えている。
(ここにいろ。忘れないから)
柘は手を合わせ、真山と、そこに眠っている誰かの為に祈った。
——と、少し離れた叢に真新しい墓標があるのに気づく。墓標にはただ〝蒋〟とだけあった。
「和尚」
声を掛けると、亭子の椅子に腰掛けていた空念が振り向く。
「緑ですね」
そう問うと、空念が皺だらけの痩せた頬をゆるめてうなずく。
「葬ってくれと言いよった。あやつも変わった」
空念が腰を上げ、ゆったりとした足取りで近づいてくる。
「感謝します、和尚。この男は、おれが斬りました。おれと同じく日本人で、この大陸に死に場所を探して彷徨っていた。多くの人命を奪った所業は許されるものではありませんが、罪を背負ってなお、おのれの生き様を貫いたこの男は、潔い男でした。彼と対峙することで、おれは生きるということが見えたのです」
「どんな悪人でも、人との関わりの中で思わぬ置き土産をするものだ。あやつの中にも、お前さんの中にも、この男は尊い土産を残したということじゃ。生きる価値があるかないか、それを決めるのは本人ではない。お前さんの言った通りじゃ」
朗々と経を唱える空念の傍で、柘は黙祷を捧げた。見舞いに訪れた河東の報告によれば、黒獅子の蒋の死によって青幇の追撃に終止符が打たれ、拘置所で自殺を遂げたフィリップ・サーマンの独裁で事件は終結した。日本人街での過激なテロは止み、英国関与はうやむやのまま全ては闇に葬られた。クリスが命を落としてまでした事は、本人の意図を大きく外れ、日本の政局の一つの危機を回避させたことになったのだった。
危機を脱した河東機関は、取り押さえた工作員を調べると共に紅布社の各地の拠点を崩すべく活動を続けることになり、河東の計らいで紅布社工作員〝胡蝶〟は死亡と報告された。だが結社の追求から逃れられたとしても、実父である張栄巣が暗躍している限り、息子である事実は暗い影となって緑に着いてゆくことだろう。
上海の渾沌はあらゆる者に夢をみせ、欲望ごと呑み込んで膨れ上がってゆく。クリスは帝国主義に勝利する夢を見、一番大切なものを巻き込み呑まれていった。そしてその残酷な夢は、娘を愛するゆえに泥に足を踏み入れたスミスをも呑み込んだのである。人々の喜びや悲しみを吸い上げながら街は何一つ変わることなく今日も営みを繰り返し、柘の心にやりきれない物悲しさが満ちた。
「今夜はゆっくりできるのだろう?」
経を唱え終えた空念が、酒を呷る仕種をして見せる。
「残念ですが、そろそろお暇しなければなりません。店で、何やら準備をしているらしいので」
肌寒い夕風に吹かれながら、柘は茜に染まりだした空を見上げる。
「なんじゃ嘘つきめ。梃子でも動かんのじゃなかったのか」
「方便ですよ。あれ以上粘られたら堪りませんからな。ところで、そろそろ白状したらどうです」
「退院早々、忙しい男じゃな。男にも女にも惚れられて、男名利につきるのう」
空念が空惚けて笑う。柘は苦笑まじりに溜息をついた。マダム・リーから渡された快気祝いパーティーの出席者リストには、マダム氾をはじめとする錚錚たる客たちが名を連ね、健康を取り戻したマダム・サスーンの名もあった。
「仕事は続けるのか?」
「ええ。散々迷惑をかけたにも関わらず、待っていてくれる人達がいる。その温情に些かでも報いねばならんでしょう」
空念が深くうなずき、
「あやつは広東路の〝金星〟というバーにおる。帰りにでも寄ってやれ。わしに戒められ、さぞ苛々しておることじゃろう」
白い眉を下げてにっこり笑い、ゆったりした足取りで来た径を帰って行った。
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