雲嵐

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雲嵐

 重たい瞼をゆっくりと開くと、見慣れた天井が見えた。自室の天井だ。  右手を持ち上げようと試みたものの、何かに押さえ込まれていて動かない。すると、不安気な顔の雹華が私の視界にそろりと映りこんできた。 「――鈴風? 気づいたの?」  どうやら私の右手は雹華に握られていたらしい。両手でしっかりと握りしめてずっと側にいてくれたようだ。 「私、池で溺れて……、助かったの……?」 「うん、うん、助かったんだよ。もう……、本当にびっくりしたんだからぁ。あの宦官さまが通りかからなかったらどうなっていたか……」 「雲嵐が? ――痛っ」  追いかけなくちゃ、と飛び起きた私だったけど、頭に刺すような痛みが走って手で押さえた。 「無茶しないの! 水をたくさん飲み込んでるから、安静にしてろって先生に言われてるののよ」  それに、と雹華は続ける。 「宦官さまからも、ちゃんと見張ってるように言われてるんだから。すごく心配してたわよ……。鈴風を抱えて、血相変えて医者を呼べってすごい剣幕だったわ、ぼさぼさ頭が濡れて顔に張り付いて海坊主かと思ったんだから」 「う、海坊主……」  ちょっと想像して笑ってしまった。  せっかく会えたのに、覚えていないどころか飛んだ迷惑をかけてしまって申し訳ない気持ちになる。 「とにかく、鈴風はちゃんと休むこと!」 「はーい……」  その日の夜、私は自室の外で雹華に髪を洗ってもらっていた。まだ起き上がるなと渋っていた雹華も、私の頭からぷんぷん匂う池の泥臭さに観念して手伝ってくれている。 「ねぇ雹華」 「ん?」 「どうしよう……私、雲嵐のこと」 「――待って鈴風」  髪を洗っていた雹華の手が止まり、私を見た。その強い視線に私も口を噤む。 「それ以上は、言っちゃだめ。私たちは、皇帝陛下のものなのよ。誰かに聞かれでもしたら不敬罪で罰せられる……」  雹華は一瞬言い淀んで、「それに」と続ける。 「あなた、殺されかけたのよ。もっと気を付けなくちゃ」 「……やっぱり私、突き落とされたのよね……」 「――だから部屋で大人しくしていろと言ったんだ」 「雲嵐っ!」  振り向けば、手に灯篭を下げた雲嵐の姿があった。相変わらずのぼさぼさ頭で半分が隠されたその顔は、暗闇だとちょっと……というかだいぶ怖い。 「雹華、と言ったな。変わろう」 「へ? ……あ、あぁ、はいはい、邪魔者は消えますよ~」 「え、ちょっと、雹華?」  雹華はさっさと部屋に入ってしまい、雲嵐と二人きりになってしまった。  二人きりなんて、慣れっこなのに……。  久しぶりだからなのか、夜だからなのかはわからないけどひどく落ち着かない。  雲嵐は、雹華が座っていた場所に座ると私の髪に触れた。 「あ、自分でできるから」 「いい、洗ってやる」  有無を言わせない圧を感じて、私は押し黙った。  雲嵐は、手桶で水をかけては流してを繰り返し、丁寧に洗っていく。  チャプ、チャプ、と弾けては夜の闇に消えていく水の音が気恥ずかしさを和らげてくれる。時間がとても穏やかに流れていた。 「あの……、助けてくれてありがとう」 「痛むところはないか」 「うん……おかげさまで」  目覚めた時の頭痛も今は治まっていて、体は回復していた。  ただ、心だけがずっと塞いでいる。  それもこれも、全部この人のせい。  どうして急に居なくなったの。  どこでなにをしていたの。  あなたは、誰なの――――?  知りたい。  でも、それをぶつけてしまえば、もう二度と私の前から姿を消してしまうような気がして怖くてできなかった。 「お前が池に落ちた時、心の臓が止まるかと思った」  一通り髪の汚れを流し終え匂いも気にならなくなったので、髪を絞っていると、雲嵐が唐突にそう言った。  真剣な声音に、私は「あ……、ご、ごめん……」と謝罪を口にする。 「守れなくて、すまない……。それと、これから先、俺がすることをどうか許してほしい」 「許すって、なにを……?」 「今日はもう休め」 「う、うん……わかった」 「また(・・)明日な」  次があることが嬉しくて、私は満面の笑顔でうん、と頷き返した。 「おやすみなさい」 「おやすみ」  また会えるなら、この人がたとえ宦官の「雲嵐」じゃなかったとしても構わないと思えた。今、私の隣にいるこの人は紛れもなく雲嵐だ。それは変わらない事実だから。
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