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「ここで待ってろってさ」  一生が部屋の扉を閉めると急に病院内のざわめきが遠くなる。  一生とこうして2人っきりになるのはクリスマス以来だった。最近は話をするどころか、ろくに顔も合わせていなかった。  最後に旭葵が一生を見たのは 、一生が激カワちゃんと学校近くのファストフード店にいた時で、あれは一方的に旭葵が見ただけなので会ったとは言えない。  なんだか緊張する。何か言わなくては。そうだ、大事なことを言うのを忘れていた。 「一生、優勝おめでとう!」  一生は大きく足を踏み出したかと思うと、ひったくるようにして旭葵を抱き寄せた。  一生から塩辛い汗の匂いがする。この状況に混乱しながらも、旭葵は続ける。  それは一生が優勝したこと以上に旭葵にとって喜ばしいことだった。 「一生、またトライアスロンやることにしたんだな、俺、嬉しいよ。俺ずっと一生がまた」  旭葵に回した一生の腕が、これ以上ないというほど旭葵を締め付けると同時に、一生は声を絞り出すように低く叫んだ。 「アサ、行くなよ」 「い、一生……?」 「ブラジルなんかに行くなよ、アサ」  旭葵は息を呑んだ。  ブラジルに行くな。  その言葉を、旭葵は誰かが言ってくれるのをずっと待っていた。  湊や大輝が旭葵を困らせまいとわざと明るく振る舞ってくれているのは十分分かっている。隼人はポルトガル語会話の勉強まで始めた。  けど、旭葵が1番欲しかったのは、ただ一言、  ブラジルに行くな。  その一言だった。  そして誰よりも旭葵がその言葉を言って欲しかったのは、  一生。  旭葵は一生のウェアをぎゅっと握りしめた。  ブラジルに行きたくない。一生のそばに居たい。一生が誰を選ぼうと、一生の優しさを誰かが独り占めすることを見ることになっても、そう、一生が誰を好きであろうとも。 「好きなんだ、アサが」  ドクン。  心臓から、一気に熱い激流が全身にほとばしる。  旭葵を抱きしめる腕の強さが、見つめられる漆黒の瞳が、温かい雨のような優しいキスが、それを物語っていた。  が、今、初めて一生の口から言葉として聞かされた旭葵への想いは、一瞬で旭葵の芯を熱く溶かした。 「ブラジルなんかに行くなよ」 「行かない、ブラジルには行かない。一生のそばにいる」  旭葵は一生の背中に手を回した。 「アサ……」  一生はさらに旭葵を抱きしめる腕に力を込めた。  しばらくそうして抱き合った後、一生は解いた手を旭葵の頬へともっていった。 「俺はアサにキスしてもらえるのか?」  一生の指先がゆっくりと旭葵の唇を這う。 「それともさっき、誰がキスなんかしてやるもんか、って怒ってたから、してもらえないのかな」  一生になぞられた唇が火を灯したように熱い。旭葵はわずかに顎を引いた。 「いいよ、してやる」  そうして思い切って顔を上げた瞬間、唇を塞がれた。  それは堰を切ったようように最初から大胆に、旭葵の唇を挟むと激しく吸ってきた。  歯先で軽く噛まれると、意思を持ったような舌先が旭葵の唇の隙間から入り込んできた。あっという間に口の中全てを占領される。  怖くなった旭葵が体をよじると、体を強くたぐり寄せられ、唇は一層深く旭葵を求めてきた。  脳裏を真っ白な大波にさらわれ、目を閉じているのに眩暈に襲われたように身体のバランス感覚が失われる。下半身に力が入らなくなり一生にしがみついた。  一度唇を離して、そして同じようなキスを再び交わした。  そして離れては、また唇を重ねた。お互いの唇を恋しがるかのように、離れては求めた。  何度もそれを繰り返して、ようやく2人は身体を離した。 「アサを……、好きになってはいけないんだと、ずっと自分に言い聞かせてた」  一生はポツリと語り始めた。  一生の両親の離婚は一生のお父さんの浮気が原因だった。  いや、それはもはや浮気と呼べるものではなかった。  一生のお父さんには結婚する前、男性の恋人がいた。けれど人並みの家庭と自分の子どもを持つことが諦めきれなかったお父さんは、一生のお母さんと結婚した。  男性の恋人とはその時、別れた。けれど十数年経っても、お父さんの彼への想いの火種は消えることはなかった。  人づてに彼の近状を聞いた時、彼は病で余命半年と宣告され、あとは死を待つばかりという時だった。  居ても立っても居られなくなった父さんは、彼に会いに行った。彼と再会して父さんは確信した。誰を自分が本当に愛しているかを。  これ以上自分の気持ちを偽れないと思った一生のお父さんは、お母さんに全てを話し離婚を承諾してもらった。  一生のお父さんは今、彼が住んでいた部屋に一人で暮らしている。 「もちろん父さんの死んだ昔の恋人にも同情する。でも俺は父さんに捨てられた母さんを目の前で見た。自分が信じていた愛が虚像だったんだ。それも1年や2年じゃない、16年間だ。父さんが母さんを奈落の底に突き落としたのなら、俺が母さんをそこから引っ張り上げて幸せにしてやると思った。父さんなんかいなくても、いや父さんがいた時よりもずっと幸せだと思えるような、そんな人生を俺が母さんに送らせてやると思った」  一生は目頭を押さえ、喉をかすかに震わせた。 「そのためには、俺はアサを好きになってはいけなかった。父さんと同じことを母さんの前でしてはいけなかった。そんなことをすれば、俺は母さんを幸せにしてやるどころか、母さんは俺を見る度に思い出すだろう、自分より男の恋人を選んだ父さんのことを。そしてきっとこう感じるだろう、自分はこれに負けたのか、って。あの気丈な母さんが俺の前で泣いたんだ。“あなたはお父さんみたいにならないでね”って。俺はそれを見て誓ったんだ。俺は絶対に母さんを泣かせないって」  お母さんを泣かせないと誓った一生が今、旭葵の前で泣いていた。
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