先客

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「……岩崎様」 険悪を越え、喧騒が起こっている状態に、月子は堪らなくなり、岩崎を伺った。 芳子が、瀬川をひたすら呼んでいる。 (みのる)が、蹴った茶碗のせいで、男爵の上着に茶がかかり、濡れてしまったからだ。 客人に、自分の名前を連呼された瀬川は、障子を開けて転がり込んで来た。 廊下に控えていたのか、起こったことは、すでに分かっているようで、男爵に上着をひとまず脱ぐよう勧めてくる。 「おお、なんとか、まとまりそうだ」 この騒動のきっかけを作ったとも言える岩崎が、呑気に言った。 その一言に、どうにか平静を取り戻していた佐紀子は、さっと顔をあげると、月子を睨み付けた。 「(みのる)様!!屋敷を御案内いたします!!」 即座に、(みのる)を誘い、今度は、岩崎へ視線を定める。 「……お先にどうぞ。同時に腰をあげるのは、あまり良くないでしょうから」 どう見ても、対抗している素振りの佐紀子へ、岩崎は遠慮ぎみに声をかける。 「それに、白状すると足が痺れていてね、すぐには立てないのだよ」 照れ笑いながら岩崎は、月子を見た。 「……もしかして、私のせいで……」 膝に乗っているせいで、月子の重みのせいで、岩崎は、足が痺れてしまったのだろうか。 「あ、あの!申し訳ありません!私が!」 ああ、違う違う、と、岩崎は、単に正座が苦手だと言い張るが、月子は、慌てた。 よくよく考えれば、不自然、どころか、確かに(みのる)の言う様に、何事か、はたまた、ふしだらと思われてもおかしくない態勢なのだ。 男の膝の上にどんな理由があれ、座るというのは、まずかろう……。 月子は、このままでは、いられないと、立ち上がろうとするが、やはり、足首が痛み、体が揺らいでしまった。 そして、体勢を持ち直そうとばかりに、つい、岩崎へしがみついてしまう。 いきなり月子の重みがかかった岩崎も、同じく体が揺らぎ……。 その場にいる物達は、呆然とした。 岩崎、月子の二人が、見事に畳へ転がったからだ。それも、岩崎が、月子へ覆い被さるように。 「何やってんの、あんた達。そこまで、やるって、何なの?」 自分への嫌がらせなのか、と、(みのる)は、言いたいようで、そんじゃあ、こっちも、と、佐紀子を見る。 「さっさと、屋敷の案内してよ」 変わらずの、ぞんざいな口振りと態度のまま、(みのる)は、立ち上がり、佐紀子へ、早くしろと催促した。 「そ、そ、それが、よ、良いですわ!ねぇ、田村様!」 野口のおばが、どうしようもなくなったのか、オロオロしつつ、田村へ口添えした。 ああ、そうだ、それがいい、と、何気に場の雰囲気は、なごみかける。 「で、いつまで、あんた達は、そうしてるの?」 佐紀子を急かしつつ、(みのる)が、岩崎と月子に冷たく言い放つ。 岩崎は、事の次第を理解して、わぁと叫び、月子から慌てて離れた。 月子も、顔を真っ赤にしながら、起き上がろうとするが、はずかしさと緊張の余り、上手く起き上がれない。 「す、すまない。すまなかった。と、とにかく、起きなさい」 岩崎が、月子へ手を差出し、その体を起こそうとする。 「(みのる)様、こちらへ、裏方の皆へ紹介いたします。瀬川!」 あたふたしている、岩崎と月子のことなど完全に無視して、佐紀子は、瀬川を引き連れ、部屋の向こう側、続き間を仕切っている襖を開けると、屋敷の奥へ歩んで行く。 (みのる)は、退屈そうに後に続く。 はあ、と、野口のおばが、息をつき、そして、じろりと、月子を見た。 「あらまあ、二組とも、上手く行きそうね。そう思いませんこと?」 ほほほほ、と、芳子が、上機嫌で笑いつつも、どこか、不自然に口角を上げ、野口のおばを見た。 「あっ、え、ええ、本当に。そ、それで、田村様!ほら、仲人の件を……」 居心地が悪そうにしながら、野口のおばは、田村へ何か頼みこんでいる。 「ああ、そ、そうだ!岩崎様に、(みのる)と、佐紀子さんの仲人をお願いできないかと……」 田村も、思い出したとばかりに、男爵へ願い出る。 「あら、まあ。それじゃあ、こちらの仲人は、田村様になるわけですか?なんだか、おかしな話ねぇ。京一さん?」 「うん、そうだなぁ。京介は、確かに次男だけどねぇ、これは男爵家の婚姻だ。そこで、田村さんというのは、何か、おかしい」 「ですわよねぇ」 なんだろう、なんだろう、と、呟きながら、男爵夫婦は、首をひねっている。 その様子を見た、田村と、野口のおばは、どうか聞かなかったことにしてくれ、などと言いながら、男爵夫婦へひたすら頭をさげた。
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