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シュレディンガーの坊主
残業帰り、駅から自宅へ向かう途中のことだ。
夜道とはいえ慣れた帰路、褒められたものではないが、歩きながら小説投稿サイトのマイページを眺めていた。
私の他には全く人通りもなかったのだが、その瞬間、ふと気配を感じて顔を上げることになった。
スマホの光で瞳孔は縮んでいただろうに、平凡な住宅街はやけにドラマチックな明るさを湛え、くっきりとして見えた。
ぽつぽつと外灯が立っているからというのもあるけれど。朝からずっと爽やかな秋晴れで、月もしっかり出ているのだ。
そして気づく。
(……あれ?)
いつの間にか、十歩ほど先に人がいた。私に背を向ける形ですたすた歩いている。
目を凝らさずとも、月明かりのお陰ではっきりわかった。お坊さんだ。綺麗に剃った頭、ふっくらした黒い法衣姿、右手には黒い鞄を提げている。
この時間であの格好。前職が葬儀屋だったのもあり、通夜帰りなんだろうなと自然に察することができた。後方に伸びる長い坂を上がれば、すぐ近くに葬儀場もある。
それでいて奇妙に思ったのは、この辺りに寺院はないのにな……ということだ。
この町は昔、沼みたいにジメジメした深い森だったのを、次々切り開いて住宅地にしていったのだと聞く。
人がいなかったのだから、古い寺がないのもなんとなく頷ける。件の葬儀場に呼ばれたお坊さんは皆、もっと離れた町から車やバイクで駆けつけるのだ。
だが勿論、お寺とは別に住居を構えるお坊さんだっていることだろう。私と同じように、朝出勤して夜帰宅する。夕方一度帰ってから葬儀場に赴いたのであれば、ああして歩いて帰ってくるのも不思議ではない。……
そんなことを考えているうちに、お坊さんはスッと右の路地へ曲がってしまった。私の位置からは、灰色の塀に遮られ、瞬時に姿を消したようにも見える。
「……」
……あっ。
あちゃ〜……。
思い出してしまった。
あの右の小道は、すぐ行き止まりだ。
切れ目のない塀に囲まれているだけで、ドアもシャッターも何もない。あそこに向かったら、塀をよじ登りでもしない限り、どこの住居にも入ることはできないはずだ。……
そうと気づいた私だが、足を止めることはない。
自宅への道であれば他にもあるにはあるが、もうとにかく仕事で疲れている。一刻も早く食事して、お風呂に入って、少し書いたらすぐ寝たい。だから最短ルートで帰りたい。今夜の私に、その思いに勝るものはない。
それに……。そもそも、まだあのお坊さんが幽霊であると決まったわけではないのだし。
少なくとも、私があの地点に辿り着くあと数歩までは。
顔を右の行き止まりに向けて、しかと視認するまでは、まだ何ひとつ確定などしていない。
五歩歩くうちにここまで考えた。
あと五歩歩く間に、いくつかのパターンを弾き出してみよう。
あと五歩。お坊さんが行き止まりで呆然と立ち尽くしている。眠いか酔っ払っているかで、ごく単純に道を間違えてしまった人。あるいは、何らかの理由で自宅ではない場所に向かっていて、道に迷った人。
あと四歩。お坊さんは、何かしら目的を持って袋小路に入った。あんな行き止まりに何があるのかまでは不明だが、例えばゴーストバスター。あそこに幽霊が留まっているのを知って、除霊に向かった人。
あと三歩。お坊さんは今夜あの袋小路で眠るつもりだ。家に帰れない複雑な事情があるのかもしれない。あるいは家を持たず、日々路上で暮らすことを修行とし、悟りを目指す人。
あと二歩。お坊さんが、なんとこちら側を向いて佇んでいる、または私の方へ向かってくる。それだとさすがに、私を脅かす幽霊かもしれなくて怖い。幽霊でなければ、お坊さんの姿をした通り魔かもしれない。あるいはただ単に、背後を歩く私を警戒して振り返った人。
あと一歩。お坊さんの姿は影も形もなくなっている。私が追いつくまでのほんの数秒のうちに消えてしまったのなら、これもさすがに幽霊かもしれない。あるいは、敢えてパルクールで塀を越えて帰宅するのが趣味という奇特な人。
ゼロ、到着。
私は右を見る。早く帰りたいのは山々だが、それでも行き止まりに目を向ける。ここまで来たらもう、確かめずにはいられない。折よくこの月明かりなので、暗くて見えないとか、見間違えるといったこともないだろう。
月夜に遭遇したお坊さんは、果たして人なのか幽霊なのか。ここには私しかおらず、思考しているのも私のみであり、私にしか結果は定められない。
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