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覗き込んだ先に見えたのは、想像していた人物ではなくて、東京にいるはずの元彼だった。
真顔と微笑みが混じり合った能面のような笑みで私を見つめていた。
「やぁ虹音。こんな時間から出掛けるの?ダメでしょ?さぁ、帰ろう」
伸ばされた腕を振り払うように私は来た道を戻っていく。背後で車のドアが乱暴に閉まる音がして、何か叫びながら追いかけてくる。
頭の中で島の地理を思い出しながら走った。途中、山さんの漁師仲間とすれ違ったけれど、暗くて誰が誰だか分からなかった。私は止まることなく走り続けた。
入り組んだ小道を抜け、何とか逃げ切れたようだけど、息遣いがすぐそこに感じられた。
息が上がり、全身が小刻みに震えた。両手をぎゅっと握っても震えは止まらず、大きくなるばかり。
ーーー誰かに連絡しないと。
思い浮かんだのは1人しかいなかった。震える手で掴んだスマホが掌から滑り落ちていく。しゃがみ、それを拾い上げ、画面に触れた。
明るくなった画面には、何通もの通知が届いていた。開くと理市からの連絡だった。
鳥居の下に着いたこと、
待ってるからゆっくりおいでということ、
少し時間を置いて、何かあった?と。
着信もあった。
待ち合わせの時間から30分は過ぎていた。
タイミングよく、また着信があった。
《もしもしーー》
理市の声が聞こえた瞬間、堪え切れないほどの涙が溢れてきた。
『あのっ…』
だけど言葉にならなくて。
《すぐ行くから。今どこ?》
地元の人のためのような裏路地。説明してもここに辿り着けるか分からない。
『あの…一緒に行った温泉…』
《 近いの?》
『うん…』
《じゃあそこで。電話、喋らないでいいから切らないで》
『はい…』
角を曲がる度に誰もいないことを確認し、少しずつ少しずつ進んでいく。
温泉まで着くと、駐車場に何台か車が停まっていた。きっと温泉客。誰かの目があるのはありがたいこと。
『着いた』
《うん、俺ももう着くから》
息が弾んでいた。
直ぐに見つけられるようにと、自動販売機の横に立つ。明かりを頼りに直ぐに理市に見つけてもらうはずだったのに、私を見つけたのは彼だった。
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