月を掬う夜

1/1
30人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
真夜中にカレーが食べたくなった。 絶対、さっき見た映画のせいだ。 あんな美味しそうなキーマカレー。 緑のグリンピースがアクセントの。 炒めたクミンシードがふわっと香りそうな。 こんな時間に食べたら太るとか、問題はそこじゃなくて。今すぐあのスパイスの香りに包まれたい。 コリアンダー、カルダモン、ショウガと… 「あ」 刹那、途方に暮れた。 ニンニクがない。 冷凍庫に豚のひき肉もグリンピースもあって、スパイスは全部揃ってるのに。 私は時計を見た。 もうすぐ日付が変わる。 部屋着のスウェットを脱いで、ジーンズとTシャツに着替える。夜はもう肌寒いから、プルオーバーのパーカーを重ねた。 家と自転車の鍵を掴んでドアを閉めると、階段を駆け降りた。真夜中の空気を、裸足にスニーカーの足音が震わせる。金木犀の甘い香りがふわっと鼻をくすぐってきた。 しんと寝静まった路地から大通りへ出ると、そこらはヘッドライトの群れと街灯でまだ明るかった。川にかかる橋を渡ったふもとにコンビニがある。アーチになった欄干(らんかん)沿いの歩道を、立ち()ぎでぐいぐい進んでいく。 橋の真ん中あたりで、川面に映ったものに目を奪われて、私は自転車を停めた。 綺麗… 普段は疲れきって帰ってくる道だから、夜空を見上げたことなんてなかった。久しぶりの連休で昼過ぎまで睡眠不足を補い、溜まった洗濯物とドラマの録画を制覇した。 夜も 快晴って言うのかな 雲は一片も見当たらず、大きな丸い月が煌々(こうこう)と辺りを照らしている。流れに揺蕩(たゆた)う光はよく冷えていて、水から(すく)い上げて触れてみたくなる。 気を取り直してペダルに足をかけた時、見覚えのある横顔が煙草をくわえて、欄干に(もた)れているのが見えた。 「…新藤(しんどう)さん。こんばんは」 私が声をかけると彼は勢いよく私の方を向いた。 月明かりのせいで、頬を伝う涙がはっきり見えた。 彼はそれを拭うでも笑ってごまかすわけでもなく、じっと私を見つめてくる。 まるで、私が悪いことをしているような気分にさせられる。 「…どっか、痛いですか」 何て声をかけたらいいのか言葉が出てこなくて、私なりに精一杯、気遣ったつもりだった。彼は煙草の吸いさしを指に挟んだまま、(かす)れた声で答えた。 「ちょっとな…」 それだけ言って、また川面を見つめながら煙を(くゆ)らせる。光がキラキラと反射する流れと、赤く灯る小さな火。澄んだ月の光に照らされて、浮かび上がる唇のラインと指先のシルエット。 私は今夜 恋に落ちる 疑いようもない必然が、すとんと降りてきた。 「こんな時間にどこに行くんだ」 今度は意外としっかりした声が尋ねてくる。 「そこのコンビニです。カレーを作るのにニンニクがなくて」 「今から?」 「チューブのヤツが売ってるでしょ」 どうしても今じゃなきゃってこと、たまにある。 ()れったくて待ちきれなくて、何かに()かされるように動いてしまう時が。 カレーとか 満月とか …新藤さんとか そんな私を(たしな)めるかのように、上司は業務用の口調になった。 「うちにもある」 「…それは、取りに来いと?」 「丸ごと一株」 「料理するんだ…」 「たまにな」 このまま話を進めていいのかわからないが、私はカレーを作りたかったことを思い出して言葉を継いだ。 「もらってもいいんですか」 「俺も食いたい」 「こんな夜中に?」 「おまえが言うな。責任とれ」 私は大きく息を吸って、(はや)る鼓動で声が震えるのを隠した。 「では、取り急ぎニンニクを入手次第、帰宅して調理を開始します。一時間ほどしたらウチにいらしてください」 「了解」 会社での会話を再現するように伝えると、素直に従う彼と一緒に歩きだした。 「あ。でも、待ってるうちに寝るかもしれない。おまえの家で待ってていい?」 「…手伝ってくれるなら許可します」 彼が小さく笑った。 男の人だって、時には誰かに甘えたいこともある。 弱みにつけこむつもりはないが、やっぱりさっきの涙の理由(わけ)は気になった。 自転車を押しながら、隣の横顔を窺う。 無精髭と煙草の残り香。 (しずく)の痕はもう見えないが、いつもの笑顔は鳴りを(ひそ)めている。 でも、まずは腹ごしらえだ。 ここはゆっくり進まなきゃ。 満月は私たちを見守るように、背中から優しく照らしていた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!