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真夜中にカレーが食べたくなった。
絶対、さっき見た映画のせいだ。
あんな美味しそうなキーマカレー。
緑のグリンピースがアクセントの。
炒めたクミンシードがふわっと香りそうな。
こんな時間に食べたら太るとか、問題はそこじゃなくて。今すぐあのスパイスの香りに包まれたい。
コリアンダー、カルダモン、ショウガと…
「あ」
刹那、途方に暮れた。
ニンニクがない。
冷凍庫に豚のひき肉もグリンピースもあって、スパイスは全部揃ってるのに。
私は時計を見た。
もうすぐ日付が変わる。
部屋着のスウェットを脱いで、ジーンズとTシャツに着替える。夜はもう肌寒いから、プルオーバーのパーカーを重ねた。
家と自転車の鍵を掴んでドアを閉めると、階段を駆け降りた。真夜中の空気を、裸足にスニーカーの足音が震わせる。金木犀の甘い香りがふわっと鼻をくすぐってきた。
しんと寝静まった路地から大通りへ出ると、そこらはヘッドライトの群れと街灯でまだ明るかった。川にかかる橋を渡ったふもとにコンビニがある。アーチになった欄干沿いの歩道を、立ち漕ぎでぐいぐい進んでいく。
橋の真ん中あたりで、川面に映ったものに目を奪われて、私は自転車を停めた。
綺麗…
普段は疲れきって帰ってくる道だから、夜空を見上げたことなんてなかった。久しぶりの連休で昼過ぎまで睡眠不足を補い、溜まった洗濯物とドラマの録画を制覇した。
夜も 快晴って言うのかな
雲は一片も見当たらず、大きな丸い月が煌々と辺りを照らしている。流れに揺蕩う光はよく冷えていて、水から掬い上げて触れてみたくなる。
気を取り直してペダルに足をかけた時、見覚えのある横顔が煙草をくわえて、欄干に凭れているのが見えた。
「…新藤さん。こんばんは」
私が声をかけると彼は勢いよく私の方を向いた。
月明かりのせいで、頬を伝う涙がはっきり見えた。
彼はそれを拭うでも笑ってごまかすわけでもなく、じっと私を見つめてくる。
まるで、私が悪いことをしているような気分にさせられる。
「…どっか、痛いですか」
何て声をかけたらいいのか言葉が出てこなくて、私なりに精一杯、気遣ったつもりだった。彼は煙草の吸いさしを指に挟んだまま、掠れた声で答えた。
「ちょっとな…」
それだけ言って、また川面を見つめながら煙を燻らせる。光がキラキラと反射する流れと、赤く灯る小さな火。澄んだ月の光に照らされて、浮かび上がる唇のラインと指先のシルエット。
私は今夜 恋に落ちる
疑いようもない必然が、すとんと降りてきた。
「こんな時間にどこに行くんだ」
今度は意外としっかりした声が尋ねてくる。
「そこのコンビニです。カレーを作るのにニンニクがなくて」
「今から?」
「チューブのヤツが売ってるでしょ」
どうしても今じゃなきゃってこと、たまにある。
焦れったくて待ちきれなくて、何かに急かされるように動いてしまう時が。
カレーとか 満月とか
…新藤さんとか
そんな私を窘めるかのように、上司は業務用の口調になった。
「うちにもある」
「…それは、取りに来いと?」
「丸ごと一株」
「料理するんだ…」
「たまにな」
このまま話を進めていいのかわからないが、私はカレーを作りたかったことを思い出して言葉を継いだ。
「もらってもいいんですか」
「俺も食いたい」
「こんな夜中に?」
「おまえが言うな。責任とれ」
私は大きく息を吸って、逸る鼓動で声が震えるのを隠した。
「では、取り急ぎニンニクを入手次第、帰宅して調理を開始します。一時間ほどしたらウチにいらしてください」
「了解」
会社での会話を再現するように伝えると、素直に従う彼と一緒に歩きだした。
「あ。でも、待ってるうちに寝るかもしれない。おまえの家で待ってていい?」
「…手伝ってくれるなら許可します」
彼が小さく笑った。
男の人だって、時には誰かに甘えたいこともある。
弱みにつけこむつもりはないが、やっぱりさっきの涙の理由は気になった。
自転車を押しながら、隣の横顔を窺う。
無精髭と煙草の残り香。
滴の痕はもう見えないが、いつもの笑顔は鳴りを潜めている。
でも、まずは腹ごしらえだ。
ここはゆっくり進まなきゃ。
満月は私たちを見守るように、背中から優しく照らしていた。
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