30人が本棚に入れています
本棚に追加
/22ページ
四月馬鹿
午前六時半ぴったりに。部屋の蛍光灯は自動でオンになる。まつ毛を震わせてまぶたを開けた。天井のアナウンスから流れているのはグリーク作曲・『朝』。
爽やかな目覚めと清々しい一日の始まりを強制された林杏奈は、いつものように布団をかぶって抵抗した。ドアが開放されるとともに「おはようございまーす」とバイタリティー溢れるあいさつ。その人は、布団の上からとんとん叩く。
「林さーん、起きましょうね」と甘ったるく促した。
しぶしぶ起き上がり杏奈は前髪を触った。首を横に向けて隣のベッドを見る。
「おっはー」と、手をプラプラさせて琴子が声をかけた。
「おはよーございます」
「四月初日から雨かぁ〜」
「……ですね」
「雨の日は旦那の機嫌がいつも悪かった。ぜったい手を上げるの。旦那から逃げた日も土砂降りだったわ。裸足でアパート飛び出して。わたし歯が折れてたのよね、あのとき」
つい先刻の愛嬌ある「おっはー」は、いずこへ? 目の下を真っ黒にした琴子は別人だった。返答せず杏奈は窓の外を見た。まだ明けたばかりの曇天はにび色。この窓枠を眺めて二ヶ月あまりが経った。
林杏奈。四人家族。父はサラリーマン。母は専業主婦。六つ離れた姉がいる。家父長一家とまではいわないが、家族内で唯一男性の父は、その特権を自負している節がある。昔から風紀や教育には厳しかったし、母が父に逆らうところを見たことがない。結婚した姉は早々に米国へ飛んだ。
姉の旅立ちの二年後。荒波にもまれた就職活動。艱難辛苦の末に勝ち取った採用。——第一希望の会社には書類選考で落選。失敗を引きずったまま第二希望の面接。緊張のあまり腹痛をもよおした。お腹と骨盤あたりがグゥとかゴロゴロっと鳴って、面接待機中に羞恥した。それは止まらず、彼女は生理現象の効果音をごまかそうとして声がうわずった。面接官の訝しむような視線にだんまりしたのち退室。思ったとおり不採用。なけなしの気力を振り絞り受けた三社目で内定。だが、就職して一年足らずで会社を辞めることになるとは、夢にも思っていなかった。
最初のコメントを投稿しよう!