シーン1

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シーン1

 気がつけば、降りつける雨の中、必死で薄暗い林を走っている。  薄闇に乱立する原生林の木々の幹が黒く浮き上がり、よろめく体にぶつかって今にも転んでしまいそうだ。  ここは沼沿いの林だ。視界は暗いが、自分の着ている着物の細部まで分かる。黒地に打ち出の小槌や手鞠などの縁起物の刺繍が施されている晴れ着だ。視界の端で振り袖が翻っているのが見える。  足が痛い。よろけた拍子に草履が脱げてしまったせいだ。ぬかるんだ落ち葉、枯れ枝や小石、出っ張った木の根を足袋が踏みつける。  音も聞こえる。林を駆け抜けていくときに足が踏みしめる草の音が、薄闇に響いている。自分が立てる音に鳥や動物の声すらかき消される。  山の匂いがする。雨に湿った土の臭い。腐葉土の発酵した臭気が鼻を突く。  息が上がり、喉と肺がひりつくほど熱く痛い。口の中は乾いて、余計に喉の痛みが増す。長い濡れそぼった髪が乱れて、顔にかかって視界が遮られる。  何度も後ろを振り返る。黒い闇の垂れ幕と雨が視界を遮っていて、人影のような木の幹だけが見えている。
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