死んだ肉屋

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死んだ肉屋

三ヶ月前であれば、夜のとばりが下りてなおここら一帯の喧噪は収まる事を知らず、露天商の呼び込みは熱を増し、観光客の足が途絶える事も無かった。だが今ではすっかり見る影もなく、観光客はおろか地元の者さえその姿を消し、通りはただただ無人の出店がひっそり佇むばかりであった。 しかし以前の繁華街に思いを馳せたところで、その華やかさとは裏腹にそこにいる誰もが心の奥底に何らかの暗い影を抱いている事を思えば、これが本来あるべき光景では無いか、とも思えた。 私は自分の事も肉屋の事も、真っ当な人間では無いと思っている。 肉屋との出会いは一年近く前だ。彼はこの界隈の露店の店主だった。髪の毛が一本もない坊主頭の巨漢が、薄汚れたエプロン姿で串焼き肉を提供する姿を見て以来、私は彼の事を肉屋と呼んでいる。 呼んでいる、と言っても直接本人に「肉屋」などと声をかけたりはしていない。あくまで私の中での彼のあだ名である。私がこの露天商の元で働く従業員である以上、敬意を払う必要があった。だが心の中ではずっと肉屋、肉屋とぞんざいな呼び方をしていた。 別に肉屋を嫌っているわけではない。むしろ恩人と言っても良い存在である。 この国はインフラ整備が不十分で、また治安も良くない。この辺りは観光地としての側面もある為まだマシな方だったが、裏通りには地元の連中でも寄りつかぬ場所が多数存在した。 私は、元々その裏通りを主たる生活の場としていた。 傷害、恐喝、窃盗は無論の事、強盗、強姦、殺人でさえ当然の様に行われる環境が私の日常であり、犯罪は生きる為に必要な行為であった。 だがそれを望んでいない事も事実であった。日銭を得るためのスリや窃盗でさえ失敗と報復のリスクと隣り合わせで、理想的な生き方とは言えなかった。 そんな生活から抜け出すきっかけを私に与えてくれたのが、この肉屋であった。
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