ほくろ

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ほくろ

 ちゃぷん。     ごしごしごし。     ナイロンタオルが擦られて泡を立てている音。    広いとは言い難い、集合住宅の浴室。  白い壁。風呂桶も風呂椅子も白い。  真っ白な空間で、真っ白になる時間を過ごす。     何年振り、いや、十何年振りだろう。母娘(おやこ)でこうしてお風呂に入るのなんて。   「いつでも出戻ってきていいんだからね」 「ちょっと! 変なこと言わないでよ!」 「そうは言ってもねぇ……あの人だって、結婚する前……いえ、あなたが生まれる前までは、すごくいい人だったのよ」    あの人というのは、私の父だ。  あの人は娘である私には優しくしてくれていたが、妻である私の母には暴言を吐いたり物を投げつけていた。いわゆる『モラハラ夫』だった。  どんなに優しくされても、自分の母がどんな扱いを受けているか、わからないほど子供は鈍くない。だが、父の機嫌を損ねたら自分も何かされるかもしれない。それがとても怖かった。     母は、おとなしそうに見えるが、なかなか(したた)かな女性だった。    こっそりと着々と準備を進め、夜逃げならぬ昼逃げのような形で私を連れ、あの人から逃げた。  そして周囲の人たちや支援団体の協力もあり、離婚。女手ひとつで私を育ててくれた。   「カズくんとあの人を一緒にしないでよ。もっとこう……娘の門出を祝って欲しいんだけど」 「わかってるわよ。カズくんは、あの人とは違うってこと。でもね……やっぱり、心配になるのよ」  うん。それはわかってる。わかってるつもりだけどさぁ…… 「あら。こんなところにほくろが」  「えっ? どこ?」    ここ、と私の腰の辺りを母の指がなぞる。   「ひゃあ!」  狭い浴室に悲鳴が響く。    母はくすくすと笑った。  散々苦労したはずなのに、どこか少女のような雰囲気をほんのりと残している。娘から見ても、いつまでも可愛らしいというか、チャーミングな女性。私の自慢の母。    「もう、わたしが一番に見つけることができないのね」 「……何言ってるのよ。もう!」      私は明日、この家を出る。  そして、母と違う苗字になる。    ただ家を出て、苗字が変わるだけ。  それだけなのに、全てが変わってしまうような気がする。     遠くに住むわけではない。  市内だ。電車で一駅。  いつでも会いに来れるはず。  それなのに、別の世界へ行くような気分になっている。    母親(おや)離れしていないと、笑ってくれてもいい。  こんなことを思う私を、いっそ笑ってほしい。     ちゃぷん。    狭い浴室。     これからも可能な限り、母に私のちょっとした変化を、一番最初に見つけて欲しい。    私も、母の変化を一番先に気付いていきたい。    とりとめのない会話が、浴室に響く。  いつの間にか小さく見えるようになった母の背中を洗い流す。      新しいほくろは、見つけられなかった。    
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