キミは天使

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キミは天使

その男は、びっしりと文字が書き詰められた数十枚にも及ぶ便箋を握りしめ人通りもないような裏ぶれた道の上に息絶えていた。高い植林に囲まれたその上には消費者金融の看板の灯りが人目をしのぶように明かりを灯していた。私はその便箋の束をそっと手にとる。この男の半生そして後悔と懺悔が細やかに綴られていた。そして天使のことも。 夜の街、裏通りの消費者金融のATMにひとりの男の姿があった。慣れた様子でタッチパネルを操作し借り入れたのは僅かに一万と数千円。いかにも疲れた一見して冴えない中年サラリーマン。毎月毎月返しては借り借りては返しを繰り返しとうとう借入額は年収の半分を超えていた。だから毎月返した途端に借り入れるにも僅かな額なのだがそれがなければ生活ができないのだから仕方ないのだ。深いため息をつき僅かばかりのその金を札入れに押し込みこれで最後にしようと心の中でまた言ってみる。きっと来月も給料日には返済をしそれから一週間も経たぬうちに人目を避けてこのATMに来るのは自分が一番よく知っていた。そしてまた毎月と同じことを考える。もうこれまでか。実際にはもう暮らしは破綻していた。しかし大学中退最終学歴高卒にしてスキルゼロの五十代に身入りの良い仕事などあるはずがなかった。過去を振り返りそれは反省ではなく後悔の日々を過ごしていた。親の七光りで勤めた大企業を辞めたことを何十年と後悔していた。特別な贅沢もしたわけではないのだがただ借金ばかりが増え人並みの暮らしさえできずにいた。収入が低いのだ。ふと死んでしまおうかと心の中で嘯いてみても所詮が怖がりの臆病者に自ら命を絶つことなどできようはずがなかった。ただ安月給のわりに忙しい毎日をこなすように生きているだけであった。あのバブルの頃の金銭感覚や今に至った不甲斐なさを考えるうちに表通りの少しだけ人通りのある商店街へ入って間もなく男の視線に飛び込んできたのは赤い自転車の横でしゃがみ込んで何かに苦慮する表情の制服姿の少女であった。営業職でまるで知らない人に声をかけることには慣れていた男は真っ直ぐに少女の元へ向かいその背中から声をかけた。 「どうしたの?」 ポニーテールを揺らし振り返った少女は透き通るような色白の美少女でまるで穢れのひとつないような清純さとそれに相反するようなほんのりと大人びた香水の良い香りがした。 「チェーンがはずれて困っているんです」 今にも泣きそうな少女をのけて男はその油と鉄粉に塗れた真っ黒なチェーンを手際よくサッとあっという間にギアにはめてやった。 「助かりましたありがとうございます」 そう言って少女は男の、油で真っ黒になった手を見、さっとポケットから白いハンカチを出すと男の手を取りそれを拭いた。 「あ、ハンカチがダメになるよ」 男は手を引っ込めたが少女はその手を強く握りハンカチで何度も拭いた。 「本当にすみません私のせいで手が真っ黒に」 やがて真っ白だったハンカチが真っ黒になってもまだ男の手はたいして綺麗にはならず、やがて少女のその手も真っ黒になっていた。 「いいんだ本当に大丈夫、ボクの手なんかはじめから汚れていたから」 今さっき消費者金融のATMで金を借りてきたこの穢れ汚れた手。 「もう遅くて真っ暗だ、気をつけて帰りなよ」 男はそれだけ言い真っ黒になった手を見つめ少しは自分も他人の役に立つこともあるのだと思いながら歩いていたのだが何か後ろに気配を感じ振り返るとさっきの少女が自転車を押してずっと着いて来ていたのだ。男は立ち止まり少女に尋ねた。 「キミもこっちの方なの?」 少女は首を横に振った。 「私、帰るところがないんです」 男は耳を疑った。身なりも良いこんな少女が帰る家がないはずがないだろう。自転車のカゴに学生カバンがひとつあるだけで大荷物で移動するホームレスのような風でもなかった。男は返答に困った。 「泊めてください」 もしかしたら彼女は売春を持ちかけているのだろうか、いやこんな清純そのものの少女がそれはありえない。男の頭は混乱をきたした。 「私を置いてください」 男はどうしたものかと首を捻るほかには何もできなかった。これは下手をしたら捕まって新聞沙汰である。このとき先程無意識に手を貸したことをほんの少しだけ後悔していた。厄介なことになった。それは男の本音であった。少女はといえばほんの少しの喧騒の中で赤い自転車の脇で真剣に男を見つめていた。思えば離婚したときひとり娘はちょうどこの少女と同い年くらいの頃であった。別れた妻に引き取られあれ以来ずっと音信不通。互いの安否すら知らぬ。ふと見ればこの少女の制服は地元でも有名な、頭が良くよい家庭の子ばかりが通う学校のものだとすぐ分かった。家出でもしたのだろうか。どうにもすぐにはピンとこない。男は少女に尋ねた。 「なぜキミのような子が?」 少女はキュッとクチを結び少しうつむいた。このとき男の脳裏には児童買春やパパ活だの援助交際らの言葉が浮かんだ。男は先程消費者金融から借り入れた僅か一万と数千円を札入れから取り出し少女の手元に押し付けた。 「いけないことはもうやめなさい」 少女はパッと男のその手を払うようにし自分のスカートのポケットから万札を数枚取り出した。やはり何かしらよくないことをしているのではないかと男は余計に心配をした。 「お金ならありますからどうか泊めてください」 少女の顔は真剣そのものでひとつ間違えば鬼気迫るようですらあった。 「そのお金はどうしたんだい?」 その問いに少女が答えたのはまるで想像外のものであった。 「私は天使だからいくらでもなんでも手に入るんです」 白痴か知恵遅れだろうか、いやそんな子には見えないし何よりそういった知的レベルの低い子があんな有名進学校に入れるはずがない。ますます男は混乱をした。立ち止まり問答を繰り返すうちに時計の針はもう夜の十時を指していた。どのくらいそうしていたのかは見当がつかぬほどであった。これ以上は時間の無駄。 「困っているなら警察へ相談しようボクが送って行くよ」 すると少女は何度も何度も頭を下げた。 「お願い、しばらく泊めてください。あなたを助けたいんです」 男は不意を突かれた。 「ボクを助けたい?なぜ?」 やはりどこか頭のおかしな子なのだろうか。この制服もリサイクルショップや何かしらで購入しただけなのだろうか。 「だから私は天使、あなたを救いたい」 厄介なことになったと男は正直そう思った。やはり110番通報すべきか迷った。 「110番に電話をかけようとしましたね」 胸ポケットから取り出しかけたスマートフォンを男は落としそうになった。 「私は白痴や知恵遅れでもなんでもありませんこの高校にも通っています、それも天使だからこそできるのです」 この子は人の頭の中まで覗けるらしい。もはや何かの物の怪かむしろ白痴や知恵遅れの方がまだ扱いが容易いと思った。 「私は物の怪ではありません。列記とした天使ですから」 こうも心の中を読まれたのではたまらないどころか薄気味悪さすら感じていた。こんなとき相談のできる友達のひとりすらいない。親兄弟とはとっくに疎遠。お互い生きているやら死んでいるやらそれも知らぬのだ。こんな屑をなぜ神や仏は活かしておくのか恨む夜もあった。男は元来たいして頭の良い方ではなかったが混乱した頭の中を少しずつ整理しようとしていた。 「私、お腹がすきました、何か食べて帰りましょう」 少女は先程の万札の束をポケットから出して言った。 大丈夫あなたは幸せになる為に生まれてきたんだから
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